不思議の国はあります
細谷辰之 [日本医師会総合政策研究機構 主席研究員]
「科学は万能ではない」という言葉を、物心ついてからこの方、結構頻回に聞いてきた気がしている。そのままではないにしろ、こうした言葉が、よく吐き出されてきたと言えば、そうだそうだと同意する人も多いのではなかろうか?
「科学は万能ではない」という言葉は、人間の思いあがった傲慢さをたしなめる意図をもって吐き出されるべき言葉であろう。がしかし、一方で、合理的な方法を冷たい非人間的なことと退けて、無駄な努力を礼賛するようなときにも使われる傾向はある。でも、「科学さん」という存在があって、それが万能か、万能でないかと評価されるような話ではなくて、本来は、「科学的」手法をもってしても、人間の知力には限りがあるという話のはずだ。いつのまにか、「科学さん」が万能か、万能でないか、みたいなことになっているのは不思議だ。
組織内で犯罪が行われたり、不祥事が生じたりするとき、遅かれ早かれ、組織の長ないしは、しかるべき立場の人が記者会見をする。つい先日も中古車販売業者の社長が記者会見をして話題になっていた。アメリカンフットボール部の部員の不祥事で、大手私立大学の理事長と学長が記者会見をするという報道がながれた。よく、こうした記者会見では、「知らなかった」「聞いていなかった」という弁明がなされる。これらの発言と対になって出てくるのが、「(知らなかったが)こうしたことが行われてしまった以上、管理者としての責任は免れうるものではない」というような意味の発言である。言いたいことを斟酌すれば、「私は善意の人なんです。一生懸命やってきました。でも知らないところで部下がやっていました。私は悪くないんです。本当は悪くないですが、私は誠実な人なので、管理者責任として責任を取ることにやぶさかではありません。えらいでしょう? いい人でしょう? 誠実でしょう?」ということか。そこには、善意でかつ知らなければ、許されるという判断が根底にあるのだろう。この理屈、幼稚園の園児の粗相であれば成り立つかもしれない。でも組織の長がこう言うのは、あるいはこう考えるのってどうであろう。筆者は全く駄目だと思う。善意で知らなかったということは、無能で、管理能力がなく、部下を掌握もしていない、部下には長の善意は何も伝わっていない。そういうことではないか? そんな人が長である組織は信用できない。改善の見込みもほとんどない。だったら、「やっちゃいました。ごめんなさい。今後こうした不正を指示したり黙認したりするのは損だということがわかりましたから、もうやりません。改善に努めます」という人のほうが信用に足るのではないか?「善意で無能」な人より「悪意でも賢い」人のほうが投資の対象としてはよりよいのではないか?さらに付け加えれば「部下がやりました」を強調するパターン。これも全く部下を掌握していない、長としての無能の証明になりこそすれ、免罪符にはならない。(だいたいのところ、免罪符はやめておいたほうがいい。マインツ大司教の誤りは数百年にも及ぶ混乱を生み出した)。
ちょっと考えればわかりそうなのに、どうして「知りませんでした。私は悪くありません(無能なだけです)」路線を踏襲したがるのだろう。中古車販売業者の社長もしかりである。まことに不思議だ。(実は不思議でも何でもない、目の前の苦い杯を飲み干すのが嫌なのだ。そのあと紛糾しようが、困ろうがとりあえず目の前の盃を退けたい。きっと筆者も同じ立場に立たされれば同じようなことをしたいと思ったであろう。なので学長にも大臣にもならないことにしている)
「昔は○○だった」というのを正当化の根拠にする人の存在も不思議である。今何かをするとき、その正当性の根拠として昔の経験を持ち出す。どう考えても無理があろう。だって今は今で昔ではないのだから。カエサルは「人間は見えるものを見ているのではない。見たいものだけを見ているのである」と言った。炎天下の体育の授業、いつまで続けるのかわからないが、危険だという指摘に、ある教育長の回答が、これだった。「昔から炎天下でやってきた。私の知る限りでは事故は起きていない」昔と今の平均気温の差についての情報は、カエサルのいう見たくないものなので目に入らない。どんな組織にもきっとあるはずの(程度の差は、そこそこあれ)隠ぺい体質の存在を考慮すれば、事故が起きていても隠蔽されてきた可能性だってある。夏の暑いにも元気で子供たちは運動するものだという思い込みになにか郷愁と美意識を持ってしまっているのかもしれない。温暖化はないと言い張る人も尊重したいと思っているが、筆者が小学生のころの東京では「31度になった!」と大騒ぎした日があったことを覚えている。2023年の夏、連日35度を超え、これを書いている今日の日中は39度だった。現在でも、真夏に屋外や冷房設備のない体育館で体育の授業をやっている学校、やらされている児童、生徒はどれくらいいるのだろう? ゼロになっていてほしい。もしゼロでないとしていたら、いまだに続けていられる教員の頭の中はどんな構造になっているのだろう。不思議である。死人が出ないと、問題の解決が始まらないという社会は改めないといけない。すでにけが人が結構出ているのに、いまだに絶滅していない害毒に、体育祭の人間ピラミッドがある。危険を承知で続けている理由に、「達成感を生徒に味あわせたい」ということばが湧いてくる。この言葉、こんな危険でばかげたことをやらせないと、生徒に達成感を味わってもらえないほど、教育者として未熟です。と宣言しているようなものだ。昔自分が子供のころ、人間ピラミッドで味わった達成感が素晴らしかったのかもしれない。昔から続けてきた演目を変えるのが面倒くさいのかもしれない。変えてはいけないという宗教に入信したのかもしれない。かもしれないが、いまだに生徒を危険なめにさらしながら、こうした陋習をつづけていられる個体が教育者として生息していることは不思議だ。
なにより、理不尽で非合理で、すっとこどっこいな自分を修正できないサルが、サピエンスを自称していられる厚顔さが不思議だ。筆者も理不尽で非合理ですっとこどっこいな自分は修正できないという点で他の多くの同類の個体と同じであるが、すくなくとも自分がHomo sapiensであるということに恥じらいは感じている。ああ、はずかしい。
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細谷辰之(日本医師会総合政策研究機構 主席研究員)
◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
◆「『いただく』の洪水に、つかむ藁を探す」【2023.3.14掲載】
◆「怒っているは起こっているかということについてぶつぶつ呟いた結果」【2022.11.9掲載】
◆唐茄子屋雑談」【2022.8.2掲載】
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