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パリサイ人へ

細谷辰之 [福岡県メディカルセンター医療福祉研究機構主席研究員・日本危機管理医学会専務理事]

「学問は理屈じゃねえんだ!よく覚えておけ!」と後に北大の農学部の教授となるK助教授(当時)は、面前の学生に、三月堂の執金剛神のような憤怒の気を全身の毛穴から発散させながら雷を落とした。そこへ顔を出したのはK先生のボスのA教授。「K君ちょっと」と手招きをすると自らの教授室にK先生を誘った。K先生を部屋に招じ入れ後手に扉を閉めるとちょっと困った表情を穏やかな顔に浮かべ、静かな声でしかし明瞭に宣言した。「K君、学問はどこまで行っても理屈だよ。」それから40年、今日に至るまで、K教授は「学問は屁理屈じゃねんんだ!よく覚えておけ!」と修正した雷を落とし続けている。

この世の中が虚しきものかどうかはそれぞれの個体の受け止め方だが、この世の中には一般的に理屈を毛嫌いすることをよしとする傾向があるように感じている。成分表によれば85%が理屈でできているK先生をして、前掲の言葉を発声させてしまうほどこの傾向は根強いのではなかろうか?

「確かに法律ではそうかもしれない。でもここいらはここいらのやり方があるんです。」使われる単語の選択や、表現の違いはあれど、こんな意味のことばを、今までどれほど聞かされたかわからない。「今までそうしてきたんで」というアレンジしたものが広く流通している。若い頃はその都度戒壇院の広目天のように眉を顰めた反応をしていたが、最近では大盧舎那仏のようにどっしり構えて聞き流している。もちろん、法を尊重することよりここいらのやり方を優先することにそんなにしがみつきたいなら、しがみついたままこの国から出ていけとか、しがみついたまんま国際法秩序の外に飛んでいってしまえなんて決して言わない。また、世の中には、法よりもここいらのやり方を守るほうが現実的でかつ人情味のあるやり方だとする傾向があるように感じている。よくよく観察すると、この傾向についている色は、さっきの理屈を毛嫌いする傾向と同じ色のように見える。この色全く美しさに欠ける色である。

基本的人権の尊重は法に命じられたルールのはずである。しかも最も重い最上位規範のはずである。憲法にとどまらず国際法によっても遵守が命じられている。でも、本当にちゃんと正確に守られているであろうか?生命と尊厳を守ることの重みを入管法を守ることの重みと比すれば、クフ王のピラミッドの総重量と、東大寺四月堂の総重量の差異よりも大きい(当社比)。

救急出動要請の電話が消防署にかかった。当然救急隊は救急車に乗って出動する。そして現場到着。玄関の呼び鈴を鳴らす。応答なし。家の周りをぐるっと回るながら窓を叩く、裏口のドアも叩く、それでも全く応答がない。そんなときどうすべきか。もちろん鍵を壊す、窓を壊すなどの手段を講じ内部に侵入し中の様子を確認して救助を必要としている人がいれば直ちに救急活動を開始しなければならない。しかし大概ここで躊躇の山が立ち塞がる。よくよく冷静に考えれば吹き飛ぶような躊躇の山だが、多くに善良な救急隊員がこの山で遭難する。目に前にある人様の家に無断で入るのは躊躇われる。目に見える人様の器物を損壊するのは気が引ける。視界に入らない人を心配する心よりも強い力で善良な救急隊員を誘導するのかもしれない。とはいえ要請があって出動した以上救急活動をしなければならない。困ったすえに理屈に合わないことをしでかしてしまう。家に入っていいよ、鍵を壊していいよなんて許可を与える権限のない警察や家族を呼んで許可を得ようとする。窓から中で倒れている人が目視できればそんなことはしないであろう。中に救助を必要とする人がいると確認できれば、躊躇なく鍵を壊して、あるいは窓を割って内部に侵入するに違いない。ただここでなんらかの方法で中に入ることが要請されているのは、中に倒れている人が確認できたらではなく、中に救助を必要とする人がいないと証明できない限りはである。住居侵入と器物損壊という罪を恐れるあまり生命を危険に晒す愚を犯してはならないからだ。数年前、多分10年以上前、北海道のある広域消防組合の研修会に呼ばれたときこの問題を取り上げた。ここでも、ここいらのやり方教の信仰と今までいすむの信奉は強固であった。同行した弁護士2人と懇切丁寧説明し尽くしてなんとか納得してもらったかに見えた。しかし今現在、この消防組合管内では救急隊員が家の周りをぐるぐる回って警察や家族に救急出動を要請することが優先されている。

壊した鍵の責任を取ることは難しくないが、失われた命の責任は取れない。傷つけた体の責任を取ることも極めて難しい。極めて明快で分かりやすい理屈であろう。躊躇の山で道に迷っている諸君、躊躇の山に人を送り込んで遭難させている諸君、人情家を気取る君たちに心を込めて言いたい。「世の中は理屈なんだよ!」

もう一つ。推定無罪は守るべき大原則である。はずである。有罪を宣告されるまでは無罪と推定されなければならないはずである。なぜ被疑者の名前と顔が世の中に出回るのか理解に苦しむ。また名前と顔が出回ることが至極当然のように扱われていることに気味の悪さを感じている。刑を終えて出所した人に「前科者」というレッテルを貼り差別するのは許されるのか?これは私刑に処すことではないか?少なくともほとんどの法治国家において法は私刑を禁じているはず。犯罪歴が明らかになれば生活を立てるのは難しい。職につくのも難しい。生活が困難になれば追い詰められまた犯罪を犯す道に進まないとも限らない。やり直す機会は与えられなければならない。なんていうと、何を馬鹿なと怒りだす人が山のように出てくるに違いない。自分は一点のくもりもない人生を歩んできたような顔をしてルールを犯した輩が悪い、運命に負ける弱い奴が悪いとしたり顔で言い放つ人が潮のように押し寄せるに違いない。僕にはそんな自信はない。程度の問題、ただ一線を超えていないだけで、犯罪を犯した人と自分の決定的な違いを説明する理屈を思いつかない。少なくとも僕は石を投げる資格がないことを自覚している。

先週学生と一緒に網走監獄を見学してきた。それでこんなことを思った。網走監獄では、そのレストランで受刑者の食事と同じものと称される受刑者定食を食べた。味には文句はなかったが量は少なくて閉口した。網走監獄ではそんなことも思った。

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細谷辰之(日本医師会総合政策研究機構 主席研究員)

◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
「シャルロット・サバイヨンは美味しい」【2023.11.14掲載】
「不思議の国はあります」【2023.8.8掲載】
「『いただく』の洪水に、つかむ藁を探す」【2023.3.14掲載】

☞それ以前のコラムはこちらから

2024.02.21