20世紀後半を代表する世界的指揮者――小澤征爾追悼
清宮美稚子 (編集者・『世界』元編集長)
国際的に活躍した指揮者、小澤征爾の訃報は瞬く間に世界の隅々にまで伝わった。
小澤のことを書こうと思ったのは、知り合いの若い世代の音楽研究者が、小澤というと「車椅子に乗った老人」の姿を思い浮かべると言ったのを聞いてショックを受けたからだ。確かに晩年の十数年間は度重なる病との闘いであり、最後の数年は指揮をすることもほとんど叶わなかった。しかし、同時代を生きたもののその芸術のいい目撃者であったとは言えない私でも、「『世界のオザワ』は本当にすごかったんだぞ」という思いは非常に強い。
今は各メディアの追悼記事や追悼番組が溢れているが、少し落ち着いた目で見て小澤の評価と歴史的位置付けは、今後少しずつ固まってくるだろうと思う。
日本の楽団の追悼メッセージ
小澤が亡くなったのは2024年2月6日、発表されたのは2月9日である。
世界の主要メディアが一斉に報じ、小澤とゆかりの深い国内外の楽団が次々に追悼メッセージを発表した。それらを読むと、小澤がどんな活躍をし、どうすごかったのかが伝わってくる。
日本でいち早く追悼メッセージを発表したのは新日本フィルハーモニー交響楽団(新日本フィル)。楽団創立(1972年7月1日)の立役者の1人で、その育成と発展に力を注いだ桂冠名誉指揮者小澤の死を悼んだ。メッセージでは、定期演奏会、多くの地方公演、テレビ番組「オーケストラがやって来た」(1972〜83年、クラシック音楽をお茶の間に広めたTBSの名物番組。企画と司会は小澤の盟友だった山本直純)の収録、欧米への演奏旅行、日本での世界的ソリスト(チェロのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ピアノのマルタ・アルゲリッチやマウリツィオ・ポリーニ、ソプラノのジェシー・ノーマンなど)との共演など、楽団が小澤とともに歩んだ50年を詳しく振り返り、小澤の功績を称えた。
続いて追悼メッセージを発表したのはNHK交響楽団(N響)。1962年に27歳にして客演指揮者の契約を結んだ小澤との間で、「メシアン《トゥランガリラ交響曲》の日本初演(7月)、東南アジア演奏旅行(9月~10月)を成功に導くなど、N響に目覚ましい成果をもたらし」たと称賛、「その後小澤さんがN響を指揮する機会は長く途絶えましたが、1995年にチャリティコンサートで33年ぶりの共演が実現し、2005年にも子供のためのプログラムでもN響の指揮台に立ちました。心から哀悼の意を表するとともに、小澤さんの類まれなる芸術的成果と世界の音楽界への貢献に対し、敬意と感謝を申し上げます」と締めくくっている。
このメッセージは一部音楽ファンの注目を集めた。「その後小澤さんがN響を指揮する機会は長く途絶えました」という箇所である。間接的な言及となっているが、この背景には1962年当時大きく報じられた「N響事件」がある。若い指揮者小澤とN響団員との間がギクシャクし対立に至り、ついにはN響団員が演奏会をボイコットする事態となったのだ。小澤がこの事件で日本の音楽界に見切りをつけたことが海外での大活躍につながったという見方もなされているが、両者の間に33年もの空白をもたらした事件だった。
日本フィルハーモニー交響楽団(日本フィル)は新日本フィル・N響より幾分遅れたが、HPに長文の追悼メッセージを掲載した。1968年8月19日から1972年6月までミュージカル・アドバイザー兼首席指揮者として創設期の日本フィルに多大なる貢献をしたことを称え、「1972年6月定期演奏会のマーラーの交響曲第2番《復活》の演奏は今でも語り継がれています」と指摘。「1972年7月、新日本フィルが創設されたことで、小澤氏と日本フィルはそれぞれの道を歩むことになりました。しかし、その後も小澤氏は常に音楽の高みをめざしてたゆまぬ努力を続け、『世界のオザワ』として尊敬を集めた」と述べ、「日本の音楽界の国際的水準の向上に寄与」した小澤に敬意と感謝を捧げた。
このメッセージにも注目すべき点がある。「新日本フィルが創設されたことで、小澤氏と日本フィルはそれぞれの道を歩むことになった」という箇所で、その背景には、これも有名な「日フィル争議」に至る日本フィルの財団解散・分裂と新日本フィルの創立という大きな出来事があった。日本フィル側から見れば新日本フィル創設に動いた小澤は対立する側と言うこともできる。日本フィルの追悼メッセージ発表がやや遅れた裏に複雑な思いが見え隠れするというのは穿った見方だろうか。
「N響事件」や「日フィル争議」という2つの大きな事件は、これからも小澤を語るときに避けては通れないかもしれない。ともかく、N響や日本フィルとの確執が逆に小澤の世界への飛翔を大きく後押しし、一方、日本ではのちにサイトウ・キネン・オーケストラ(さらに水戸室内管弦楽団)という、極めて質の高い小澤肝入りのオーケストラの創設につながった。
海外で活躍した小澤
日本から世界に飛び出した小澤だが、特に北米大陸での活躍が目覚ましかった。1959年にフランスのブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した後、ヘルベルト・フォン・カラヤンとレナード・バーンスタインの両巨匠、さらにはシャルル・ミュンシュの薫陶を受け、トロント交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、シカゴ交響楽団などの一流オーケストラと関わり、とくに1973年から2002年まで、29年間の長きに亘って名門ボストン交響楽団の音楽監督を務めた。
そのボストン交響楽団は、いち早く長文の追悼メッセージを発表した。その中で、小澤のもと、同楽団は、デュティユーやメシアン、武満徹など、20世紀後半の重要な作曲家の作品にも積極的に取り組み、任期中に合計 44 曲の新作が委嘱され、うち3 曲がピューリッツァー賞音楽賞を受賞したと、功績を称えている。さらに、1983年に行われたメシアンの大作オペラ《アッシジの聖フランチェスコ》の世界初演を小澤は暗譜で指揮し、ヨーヨー・マ、ジェシー・ノーマン、イツァーク・パールマン、ピーター・ゼルキンなどの著名なアーティストをフィーチャーした140以上の作品の録音も彼の並外れた業績であると述べた。また、在職中の主なハイライトとして、1979年の中国への演奏ツアーをあげている。
音楽評論家で慶應義塾大学教授の片山杜秀氏は、小澤は「米国やカナダなど、ヨーロッパに比べて歴史が浅く、伝統的な流儀が固まっていないようなオーケストラで力を発揮する指揮者だったと思います」と述べている(「毎日新聞」2月21日)。
一方、ヨーロッパの著名な楽団からも次々にメッセージが寄せられた。
ベルリン・フィルは「かけがえのない友人であり、当楽団の名誉団員でもある小澤征爾に心からの哀悼の意を表します」といち早く日本語でツイート、その後、HPに長文のメッセージを発表した。
ウィーン・フィルもHPに追悼メッセージを発表。1966年のザルツブルク音楽祭以来、半世紀以上、バロックから現代音楽に至る幅広いレパートリーで共演を重ねた小澤との特に印象的な演奏会として、2002年のニューイヤー・コンサートをあげている。
ボストンを退任後、2002 年 9 月から 2010 年まで小澤が音楽監督をつとめたウィーン国立歌劇場も追悼メッセージを発表、さらに追悼のしるしとして劇場に黒旗を掲揚した。
ただ、ウィーン国立歌劇場では、小澤の体調もあって十分な活躍ができなかったとも言えるかもしれない。
前述の片山杜秀氏は、小澤を「20世紀後半を代表する世界的指揮者」としつつ、こう述べている(同)。
「戦争で貧しい国に転落した日本が再び大国になる歩みと、小澤さんが59年にフランスのブザンソン国際指揮者コンクールで1位を受賞してから、02年にウィーン国立歌劇場の音楽監督に上り詰めるまでの音楽人生は、足並みが大体そろっていました。……右肩上がりに成長していく日本の姿とも合致していたんだなと思いますね。……小澤さんは、そんな時代の日本のシンボルであり、一つのアイコンだったと思います」
日本が右肩上がりに経済力と存在感を増していく時代と小澤が活躍する時期は重なっている。その意味では、時代が育んだスターだとも言える。小澤が一番輝いたのはボストン時代だったのではないか。そして片山氏も指摘するように、やはり小澤がいちばん活躍したのはアメリカだったのだと思う。
その小澤の訃報に落日の日本で接するのは、本当に寂しい。
ーー
清宮美稚子(編集者・「世界」元編集長)
◇◇清宮美稚子氏の掲載済コラム◇◇
◆「豆腐の話」【2023.11.7掲載】
◆「『NO DU』再び」【2023.6.13掲載】
◆「ネオニコ-野放しの30年」【2023.3.2掲載】
◆「原発廃炉と再稼働―フィクションとの闘い」【2022.10.18掲載】
☞それ以前のコラムはこちらから