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先見創意の会

今さら、今こそ、中間報告

滝田 周 [(株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長]

チュウカンホウコクって何?

その夜、私は病院の事務長さんたち4~5人に囲まれ、東京・新橋のカラオケスナックにいた。1991年師走の一夜、医療関係の出版社に入社した私の歓迎会を、雑誌のブレーン役を務める皆さんが開いてくれたのだった。勤務先は、急性期、慢性期、単科専門とさまざまだったが、共通していたのは、民間病院であること。酔うほどに、一般会計からの繰り入れで赤字補填している公立病院への怨嗟の声が高まっていく。病院といってもイロイロなのだなと、早速学んだ。

学んだはいいが、酔いがヘンなふうに回り、気持ち悪くなってきた。皆さん、揃って団塊の世代である。自分より20歳ほど上の年長者に囲まれ、緊張していたのだろう。私はひとり、離れたテーブルに移り突っ伏した。しばらくしてリーダー格のAさんが様子を見に来てくれた。「おい、大丈夫か?」。そして独り言のようにこう続けた。「それにしてもお前、まったく大変な時期にこの業界に入ってきたもんだな」。どういうことですか? 「チュウカンホウコクだよ、チュウカンホウコク!」。そう言い残してAさんは、再び仲間との議論に戻っていった。

病院の体系を「慢性病院」と「急性病院」に区分する

87年6月27日、幸田正孝事務次官を本部長とする厚生省国民医療総合対策本部は「中間報告」を発表した。来るべき超高齢化社会を乗り切るための医療提供体制の見直しと医療サービスの質向上に向け、当時、厚生省が考えていた改革の方向性について、割と率直に国民に問うものだった。最終報告はなかった。はじめからそのつもりだったらしい。それにしても、「国民医療」「総合対策」とは、かなり力の入った名称だ。

なかでも、最も力の入っていたテーマが、医療施設機能の体系化だった。当時、医療法上の精神・結核・感染症病床以外は「その他の病床」に一括りにされ、急性期も慢性期もなかった。正確を期せば、医師、看護師の配置を減らし介護職員の配置を手厚くした「特例許可老人病棟」は制度化されていたものの、本格的な体系化までのつなぎのような印象だった。こうした状況を踏まえ中間報告は、「病院の体系を慢性疾患の治療を中心とする『慢性病院』と急性疾患の治療を中心とする『一般病院』と区分する方向で検討する」と、提言というより宣言した。

今、読み返すと中間報告は、施設機能体系化を、当時社会問題となっていた老人の社会的入院の解消とリンクさせ、論を進めている。これなら社会的合意が得られやすいし、医療界も正面切って反対しづらかったはずだ。当時の社会的入院の急増は、73年の老人医療費無料化により患者側・医療側双方に生じたモラルハザードに起因するからだ。

追い込まれる病院、事務長Aさんの苛立ち

中間報告のいう「慢性病院」が、93年に創設された療養型病床群、現在の療養病床である。中間報告はさらに、病院以外の高齢者の受け皿として、老健施設と特養の整備、在宅医療と訪問看護、在宅介護サービスの充実なども打ち出した。そして老健施設については、「病院や診療所の既存病床の転換も含め」整備の促進を図る、という恐ろしいフレーズを、さりげなく紛れ込ませた。

しばらくしてまた、私の様子を見に来てくれたAさんは、中間報告を踏まえこう続けた。「これから相当な数の病院が慢性期や老健施設へ追い込まれていくよ。倒産も増えるだろうな」。追い込まれるとは穏やかではないが、Aさんは別に慢性期病院や老健施設を下に見ていたわけではない。この期に及んで、何のビジョンもないまま漫然と「ウチはこれからも急性期でいく」という理事長・院長がいて、参謀役の事務長も中間報告を読み込んですらいない。そんな病院が依然として多いことに、Aさんは苛立っていたのだ。

実際、病院の施設数・病床数は、ちょうどこの頃を境に減少に転じた。施設数は90年に初めて1万を超えたが、翌91年には9,000台に戻った後は増加に転じることはなく、22年には約8,000施設となった。病床数は92年の169万床をピークに減り続け、22年には149万床となった。特に92年の「その他の病床」と22年の「一般病床」を比べると、126万床から89万床へと3割も減った。

そうした中で2000年には介護保険制度がスタートし、医療と介護は、施設体系上だけでなく財源上も区別されることとなった。老健施設の施設数/定員数を、00年と22年で比べると、2,700施設/23万人から3,900施設/37万人へと大幅に増えている。このうちどのくらいが病院・診療所からの転換なのか詳らかではないが、この3月で廃止となった介護療養型医療施設が、老健施設へと執拗に誘導され続けてきたのは周知のとおりである。介護医療院は、どうなっていくのだろうか。

37年前、すでに絵は描かれていた

中間報告から37年、新橋の夜から33年もの時間が流れた。この間、「失われた30年」とも呼ばれるほど日本経済は停滞が続き、人口の高齢化も止まらず、社会保障給付費の負担は増え続けている。政治の面では、細川政権の成立で下野した自民党が、自社さ連立で政権に復帰したと思ったら、民主党に政権奪取され、それをまた自公連立に戻した。

Aさんが勤めていた都心の病院は、その後、診療所となり企業健診に活路を見出したと思ったら、二代目院長が郊外に移転し、こうした経緯の中でAさんは別の病院に、やはり事務長として転職した。私も転職したためお会いする機会もなくなったが、時おり診療報酬改定セミナーの講師などでその名前をお見受けした。しかし、ここ数年は見た記憶がない。そういえば、団塊の世代の全員が後期高齢者となる「2025年問題」って、来年のことだ。バブル世代のわれわれも、もうすぐ前期高齢者となる。やがて団塊ジュニア世代が前期高齢者となる「2040年問題」もやって来る。みんなただ歳をとっていくだけなのに、「問題」ばっかりだなぁと、ちょっとくたびれる。

こんな激動の中で、中間報告は今も生き続けていると感じる。たとえば中間報告は、今でいう地域包括ケアシステム確立の必要性や、予防医学とセルフケアの重要性などにも言及している。37年前、すでに絵は描かれていたのだ。正直、政治主導、官邸主導なんて政治家が力むより、官僚の皆さんに任せておけばいいのでは? という思いもよぎる。検索すれば中間報告のPDFはすぐに見つかる。ダウンロードして、ぜひ一読されたい。

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滝田 周 [(株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長]

◇◇滝田周氏の掲載済コラム◇◇
「諸行はやっぱり無常なのだ」【2024.4.2掲載】
「被災地で考えた『生業と暮らし』の関係」【2023.12.26掲載】
「ゲーテと頼近さんとサンシャイン60と」【2023.9.19掲載】

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2024.07.02