自由な立場で意見表明を
先見創意の会

Nessun dorma!

細谷辰之 [福岡県メディカルセンター医療福祉研究機構主席研究員・日本危機管理医学会専務理事]

やっと取れたチケットだった。なんとか取れたチケットだった。ついに取れたチケットだった。「La belle au bois dormant (眠れる森の美女)」いうまでもなく、ロシアの誇るバレー音楽の名手ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの名作である。この国でも人気の演目、当然チケットを取るのは楽ではない。それがあちこち手を回し、媚びを売りまくり、やっと取れたチケットだったのである。開幕は、某日金曜日の19:00だった。そしてその日は勤務日であった。しかも定例の某会議がある日であった。欧州大陸にある某国、某大学での話である。

この会議は14:00にはじまるのが通例である。そして通常2時間以内には終わる。すなわち、通常であれば、どんなにこの会議が長引いても美女の眠る森への旅が邪魔されることは考えられない。通常であればである。

通常がおかしくなった最初の予兆は昼食後に現れた。昼食から戻ると「会議の開始が15:00に変更になった」というメモが部屋の扉に貼り付けてあった。ご丁寧に電話まであった。それでもまだ余裕はあった。15:00に始まる会議は、通常であれば17:00に終わる。家に帰り、燕尾服に着替えるという手間と時間のかかる作業を経てもB広場にある国立歌劇場まで駆けつけるのに2時間はかからない。大丈夫。十分間に合う。

15:00になる。会議は定刻通りに始まった。いつも結構揉め事も起きるこの会議で、珍しく、サクサク議事は進んでいく。この日の予定に、議論が求められている議題が多くなかったこともあるが、16:15には最後のから2つ目の議題になった。これが曲者だった。大した話じゃないのに30分も要した。美女の森の開幕に間に合うという目標達成がだいぶ危うくなってしまった。半ば諦めた。最後の議題になり、委員長が配布した資料に基づきある提案をした。中身はすっかり忘れてしまったが、なかなか画期的な提案だと思ったことは覚えている。メンバーの反応も概ね好意的で、委員長が「賛同される方は挙手を」と問いかけると全員が手を挙げた。まさに捨てるルシフェルあれば拾うミカエルありである。この国では集団の合意を獲得するのはとても難しい。会議もよく揉める。揉めに揉めることも少なくない。それなのにここでは全員一致。まさに奇跡が起こったと言っても過言ではない。ダッシュで大学を出てS大通りでタクシーを拾い家の下で待っててもらい、その間に燕尾服に着替えるという作業を完了してB広場に向かえば間に合う!美女は眠らずに待っていてくれる。寝てはならぬと歌い上げなくても待っていてくれる。

バチカンには奇跡審査委員会がある。この委員会には毎年100件以上の申請があるらしい、しかし最近認定されたのはたった10件。何年で10件なのかは知らないが、奇跡とういうやつは滅多に起きないということであろう。

「委員長!ちょっと待ってくれ、私はこの案に賛成だが、全員一致で賛成というのはあまりにも不健康だ、だから私は反対に回るとする。とはいえ、賛成の私が合理的な反対意見を作成するのに時間がかかる。1時間くれないか?その間になんとかそれなりの反対意見を作ってみる。」

「ええええ!」と脳の中で叫んだ。音として外に出すことはなんとか自制できた。「空気読めよ、このやろう!」と日本語で思った。これも翻訳して音にすることは自制できた。

「ありがとう、リシャール、助かったよ。君のおかげで我々は誤謬を回避する確率を上げることができる」提案した委員長はそうノタマワッタ。2度目の「えええええ!」が脳の中で炸裂する。他のメンバーも何やら満足そうだ。会議は1時間の休憩に入った。

その日の「La belle au Bois dormant」だが、第一幕をロビーでモニター鑑賞する羽目に陥る結末が用意されていた。

自分以外のメンバーの感覚が「まとも」であると、その時はわからなかった。全会一致は不健康で不健全、誰かが反対することが必要だ。その意味が、その時は全くわかなかった。幸い、長い時間を要したが、ようやく最近この意味がわかるようになった。なれた。提案された「案」が、反対されれば、この「案」の弱点が見えるかもしれない、言いがかりだったとしても、言いがかりをつけられそうなポイントがわかる。言いがかりですら役に立つのであるから、筋のとおった反対ならその役割はさらに大きい。その「案」をより価値の高いものにする力になるかもしれない。

「対案のない反対をすべきではない」この主張最近よく目にするようになった気がしている。気のせいかもしれない。説明に足るデータを取ったわけではない。すなわち個人の感想である。個人の感想に過ぎないということを踏まえての話ではあるが、「対案のない反対をすべきではない」が世の中に跋扈して大手を振り続けるようになると、提案された「案」が成長する余地が潰されてしまうのではなかろうか?心配になる。結果として、将来の選択肢や可能性が狭まることになりやしまいか?せっかくの知恵を磨き上げる機会を失うことになるんじゃないか?心配になる。

議論をすべきだとか、議論を尽くすべきだとか、よく言われる。その通りと思う。しかし同時に「議論する」ということの意味を考える。世間を「議論する」ということをどう捉えているのだろうか?結果として何を求めているのだろう。またしても雑な個人の感想であるが、2つの疑念を禁じ得ない。一つは往々にして「議論する」過程と結果に、「異論」が嫌われすぎること。もう一つは「議論」に勝敗が期待されることである。詳しく記述するにはまだ頭の中で整理がついいていないので割愛するが、「議論をする」過程と結果に異論が嫌われ、勝敗が期待されると、人類が生み出す知恵の総量が減ってしまう気がしている。もちろん、迅速に物事を決する必要性があることを否定するつもりはない。必要に応じて、最短距離で意思決定をすることも大事である。小田原評定の果てには落城と滅亡が待っている。とはいえ、とはいえである。異論と、敗者の主張も整理してしまっておく配慮があった方が良い。

いうまでもないが、ModelXとも、歯科医の請求書ともなんの関係もない話ではある。

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細谷辰之(日本医師会総合政策研究機構 主席研究員)

◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
「だとすれば」【2024.5.21掲載】
「パリサイ人」【2024.2.21掲載】
「シャルロット・サバイヨンは美味しい」【2023.11.14掲載】
「不思議の国はあります」【2023.8.8掲載】

☞それ以前のコラムはこちらから

2024.08.27