2007年夏・奄美出張の思い出
滝田 周 [(株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長]
心に刻まれた出張
関東・東海地方を直撃すると見られていた台風10号が大きく西へ逸れ、九州上陸のおそれが強まった8月最後の月曜日。始業早々、取引先の担当M氏から電話がかかってきた。家族旅行で実は今、奄美大島にいる。今日、東京へ戻るはずだったが、台風のせいで飛行機が飛ばない。明日、明後日はもっと無理だ。金曜まで待つしかない。結局、今週は仕事にならない。本当に申し訳ない――。
私はといえば、奄美、と聞いた途端、かつて出張で訪れた時の思い出が溢れ出て、陶然としてしまった。M氏の話も上の空だった。2007年、同じ8月の終わりだった。あれほど心に刻まれた出張は、後にも先にもない。もう17年も経ってしまったが、記憶は鮮明だ。改めて振り返ってみたい。
星が見える/地球は回る/船は南溟を往く
大牟田で一つ仕事を終えた後、鹿児島へ移動する。奄美には、夕方のフェリーで渡ることになっている。鹿児島中央駅から港へ向かうバスに乗っている短い間に、スコールが来て去った。埠頭近くの停留所で降りると、雲の切れ目から夏の午後の斜光線が幾筋も降り注ぎ、桜島と海を照らしていた。
船は定刻に出航。錦江湾を滑るように南下する。右舷に長崎鼻、その奥に笠をかぶった開聞岳が見えてきた。そろそろ外海に出る。太平洋戦争末期、鹿屋、知覧、健軍、宮崎など南九州各地の基地から飛び立った特攻隊員にとって、開聞岳は最後の、そして最期の本土だった。彼らは、この美しい円錐形をした山をかすめた後、翼を振って別れを告げ、沖縄の海へ向かったという。そんな幾多の思いを受けとめた山が遠ざかっていく。見えなくなる前に、胸の前で小さく手を合わせた。
少し揺れてきた。見上げると空は、夕暮れの橙色が退き、夜の帳が下り始めていた。星が見える/地球は回る/船は南溟を往く。悲しみの一方で、何か満たされた感じがある。そんな不思議な心持ちのまま、船室に戻った。
加計呂麻島に行ける!
早暁、船は喜界島に寄り、晴天の名瀬港には、6時過ぎに接岸した。まずはホテルに行き荷物を預け朝食をとる。ロビーでひと息ついていると、役場のT氏が約束どおり9時に現れた。これから3日間お世話になるが、今日は何の予定もない予備日だ。「どこか行きたいところ、ありますか」。ダメ元で答えた。「加計呂麻(かけろま)島って、行けます?」。
「いいですよ、行きましょう」。私と同年配と思しきT氏は即答快諾してくれた。大島海峡を挟み、奄美大島南岸とは指呼の間にある加計呂麻島には、戦時中、「第18震洋隊」の基地が置かれていた。震洋とは、250キロの爆薬を積み敵艦に体当たりする小型の特攻艇のことで、米軍からはSuicide Boat=自殺艇と呼ばれていた。
総員約180名の部隊を統べる隊長は、予備学生出身の海軍少尉で、後に作家となった島尾敏雄であった。その著作で震洋や基地のことを知った私は、出張に合わせ加計呂麻行きを考えたものの、実際に行くことはないとも思っていた。それがあっさり実現することになった。T氏はいい人だ。
見たことがありそうでない景色
最初は島南端の古仁屋(こにや)港を目指す。途中T氏は、要所要所でクルマを停め、観光案内もしてくれた。有名スポットだけではない。「元(はじめ)ちとせが生まれ育った集落へ続く脇道の入り口」も教えてくれた。本当にいい人だ。
古仁屋港からは漁船をチャーターし、加計呂麻島・呑之浦(のみのうら)を目指す。基地が置かれていた入り江である。大島海峡を突っ切り、20分もかからず到着したと思う。陸地に深く切り込んだ入り江は、まるで山の中の湖のようだ。特攻艇を隠すにはうってつけの地勢である。山肌には、50隻ほどの震洋を格納するために、奥行き40メートルほどの半円形の壕が、全部で12、穿たれたとされる。
エメラルドグリーンの水面と赤土と緑、そして蒼穹の鮮やかなコントラストが珍しい。松の木が生えているかと思えば、遠くにマングローブの原生林も見える。こんな植生も、初めて目にする。「見たことがありそうでない景色」。そんな印象を持った。
此の世への執着を喪失してしまった
格納壕は、崩落しているものもあったが、思ったよりしっかり残っていた。最近整備されたのだろう、壕の一つには震洋の原寸大レプリカが収まり、説明板もあった。出撃訓練は、空襲を避けるため夜間に行われたという。壕の中から半円形に切り取られた入り江を眺める。夜陰に乗じて「自殺艇」を押し出し、月明かりの海峡に出て、「死ぬための訓練」に励む心情はどのようなものだったろう。想像もつかない。
1945年8月13日、第18震洋隊は特攻作戦発動の令を受け、いつでも出撃できる即時待機に入った。このときのことを島尾は、『出孤島記』でこう書いている。「月も中天に上った/もう発進の下令を待つばかりだ/不思議に此の世への執着を喪失してしまった」。
島尾が、「此の世への執着を喪失」するほどに心を定めたにもかかわらず即時待機は続き、そのまま15日の終戦を迎えた。発進の令が下ることは永遠になくなり、部隊は一度も実戦を経験することなく、武装解除、解散することになった……。
約束は、いまだに果たせていない
「ハブ、いるかもしれないですから、気をつけて」。T氏の声で現実に戻った。その夜は名瀬で、T氏のお兄さんも交えた3人で飲んだ。「奄美の人、風物、自然から受ける感じは、大和とも琉球とも違う」。滞在24時間にもならないのに、酔いに任せてそんな話をした記憶がある。恥ずかしい。
翌日は、午後遅い取材が始まるまでT氏の自転車を借り、今度は島の北部を縦横に走り回った。汗だくになり、「俺はここで、何をしているのだ」と(いつもの)自問をした。牛乳だと思い込んで買った「ミキ」のパックを一気飲みし、衝撃の味に気絶するかと思った。そんな一瞬一瞬が心に刻まれ、なぜかいまだに消え去ることがない。
最終日は朝から、飛行機の時間ギリギリまで取材した後、T氏に空港まで送ってもらった。T氏には改めて礼を述べ、必ず再訪すると約した。心にも誓った。ただその約束は、いまだに果たせていない。人生は意外に短いということが、最近、ようやく腑に落ちてきたので、奄美再訪を真面目に考えたいと思う。
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滝田 周 [(株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長]
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