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先見創意の会

分かつ死は誰の手で

片桐由喜 (小樽商科大学商学部 教授)

死が2人を分かつまで

恋愛系テレビドラマや映画の一場面に教会での結婚式シーンがある。そこでは、新郎新婦が牧師ないしは神父に「健やかなる時も、病める時も、貧しい時も、富める時も、死が2人を分かつまで、とも愛し、慈しみ、貞操を守ることをここに誓います。」と述べる。このとき、後年、どちらか一方が相手方を殺めることで、2人を分かつ死が訪れるとは夢にも思わないはずである。そんなことを考えたら、結婚なんてできない。

老老介護の果てに

しかし、ともに白髪となり、記憶がおぼろげになる頃に、夫婦のどちらか一方が相手を死に至らせる事件が起きている。いわゆる老々介護の果ての殺人や心中である。新聞報道によると8日に1件の割合で介護負担に耐えられずに上記のような事件が家族(夫婦、親子)の間で起きているという (※参照元:北海道新聞2024年9月24日)

要介護高齢者に適切な介護サービスを提供すると同じくらい重要な介護保険法の立法目的は介護の負担から家族を解放することである。それにもかかわらず、介護負担を苦にした上記のような事件が起きている。その原因は、関係各方面で分析され、解決策などが提示されているけれども、事件を防ぎきれていない。

育児と介護の違い

育児と介護はよく比較される。育児は、まず、見通しが立つ(〇歳で歩く、〇歳で1人でトレイに行く、〇歳で自分でご飯を食べて、15歳で親に反抗する、など)。次に乳幼児期は軽く(女性でも片手で抱くことができる)、なにより、目に入れても痛くないほど可愛いわが子が相手である。これに対し、介護は見通しが立たない(よくなることはなく、いつ終わるかもわからない)。そして、対象者は高齢者といえども成人なので重い。それゆえ、介護をとおして受ける心身のストレスや疲労は育児に比べて大きい。

ところで、育児も介護も家庭という密室の中で行われる。だから、虐待が行われても発覚しづらい。児童虐待の場合、近年は役所や警察が疑わしい家庭の中に介入している。国の宝である子供は、社会全体で愛しまなければならず、自らSOSを発信できないなら、周りの大人が積極的に救済に行かなければならないという思想が根底にある。要介護高齢者も乳幼児同様にSOSを発信することが難しいが、児童のいる家庭に対するほどは、公的介入がないのが現状である。なぜなら、どちらも成人であり、SOS発信能力の有無、程度が乳幼児ほど、明確に外から判断できないからである。

サービス利用の心理的ハードル

また、乳幼児を持つ共働きの親が子どもを預けようと保育所を探すときに、「子育てを人に頼るのは恥ずかしい」などとは決して思わない。ところが94歳の夫が89歳の妻を殺した事件の裁判で当該夫は妻の介護を外部サービスに依頼することを恥ずかしいと陳述した 。家のことを外に晒したくない、家の中に他人が入ってくるのは嫌だというのは高齢者にしばしばみられる心境である。しかし、要介護高齢者は、適切な介護サービスをも求めているはずである。

介護を担う高齢者は判断能力があるため、外部の介入を忌避する意思が尊重される。したがって一見、何の問題もない老老夫婦や老老親子の家庭の中に行政や警察が入っていくのは至難の業である。

そうであるなら、介護サービスを受けることを恥ずかしいと思わない啓蒙、教育、宣伝を地道に続けるしかないだろう。急がば回れである。もっとも事件を起こす配偶者(たいていは、夫)は報道を見る限り、80代、90代である。今の70代以下の高齢世代は、何も言わなくても積極的に配偶者や老親のために介護サービスを利用しそうである。それはそれで、要検討事項なのであるが・・・・・。

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片桐由喜(小樽商科大学商学部 教授)

◇◇片桐氏の掲載済コラム◇◇
「先見の明がないにもほどがある⁈」【2024.7.16】
「高齢者のためのセカンドプレイス」【2024.4.16掲載】
「医療ドラマと現実 -絵になる救急医療-」【2024.1.9掲載】
「リケ女獲得合戦」【2023.9.26掲載】

☞それ以前のコラムはこちらからご覧ください。

2024.10.08