核抑止が平和を支える逆説を知ろう
榊原智 (産経新聞 論説委員長)
原爆被害の実相を伝え、核兵器廃絶を訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のノーベル平和賞受賞は喜ばしいことだった。ノーベル賞委員会が「被団協と被爆者の並々ならぬ努力は(核を使用してはならないとの)『タブー』の確立に大きく貢献した」と称えたのはもっともだ。
被団協代表委員の田中熙巳さんは授賞式での演説で、「核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願い」と訴えた。
92歳という高齢にもかかわらずノルウェーの首都オスロに赴き演説する田中さんには頭が下がる思いがした。
その上であえて指摘したい。
核抑止論の否定が田中さんらの「心からの願い」に含まれるとしても、それを日本の防衛政策に適用してはならない。
日本国民が核兵器にもとづく核抑止論まで強く忌避し、それが日本政府の政策に反映したらどうなるか、容易に想像できよう。日本は、ロシアのプーチン大統領や中国の習近平国家主席、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党総書記の核兵器の前に丸はだかで立つことになる。
そのような危うい賭けを国家がすることは絶対に許されない。日本は民主主義国家のだからなおさらだ。
日本の防衛に抑止力が不可欠だと国民の大方は分かるようになった。戦後の平和は憲法第9条のおかげではなく、自衛隊と日米安全保障体制が守ってきたという点への理解も広がってきた。
ところが、核兵器については違う。核攻撃を防ぐ核抑止の重要性を正面から説く政治家、識者、メディアは少数だ。核抑止を日本の防衛に役立てている日本政府は、「拡大抑止」という専門用語を使うことで風当たりを弱めようとしている。これでは核抑止に対する国民の理解は一向に進まないわけだ。
メディアの責任も重い。被団協の人々や広島市長、長崎市長による核抑止否定論を伝え続けるだけだからだ。もちろん、核抑止否定論が存在するのは事実だから、それを報じるのは当然だ。ただし、それで日本の国や国民を核兵器の脅威から守れるのか、という指摘も報じたり、解説したりしてもらわなければ極めて危うい。
そもそも核廃絶の訴えを繰り返すだけでは、ロシア、中国、北朝鮮の専制権力が耳を貸すわけがないではないか。自由と民主主義を奉じる米国や英国、フランスなどが核兵器を一方的に放棄すれば、世界は専制国家の思うままになる。核攻撃の脅しをされても拒めない。行き着く先は核の脅しのもとの「奴隷の平和」か、ウクライナのように軍事攻撃をされる惨状である。
もし全核保有国が核兵器を廃絶するとしても、ひそかに核兵器を製造する国や勢力が現れれば万事休すではないか。人類の今の科学技術では、核攻撃を防ぐ方策は見つかっていないのだ。相手の核兵器を、自国または同盟国の核兵器で抑止しなければ安全は保てないのが悲しいかな、世界の現実である。
抑止しなければならないのは、核兵器だけではない。核兵器とともに生物兵器、化学兵器も大量破壊兵器に数えられる。侵略国による、これらの兵器を用いた攻撃も核兵器が抑止していることに留意すべきだろう。
2018年5月の話である。安倍晋三首相(当時)がトランプ米大統領と電話会談を行った。そこで2人は、北朝鮮には核兵器と弾道ミサイルだけではなく、化学兵器と生物兵器も含め「完全で恒久的な廃棄」を実現させることが必要不可欠であると確認した。これをホワイトハウスが公表した。
核・ミサイル戦力と並んで、化学兵器、生物兵器の脅威が存在している、ということだ。北朝鮮は化学兵器禁止条約を結んでいない。生物兵器禁止条約の締約国には一応なってはいるが、誠実に条約を守る国とは思えない。
今年の防衛白書は北朝鮮について、韓国の国防白書に依拠するかたちで、「化学兵器については、化学剤を生産できる複数の施設を維持し、すでに相当量の化学剤を保有しているとみられるほか、生物兵器についても一定の生産基盤を有しているとみられている。化学兵器については、サリン、VX、マスタードなどの保有が、生物兵器に使用されうる生物剤としては、炭疽菌、天然痘、ペストなどの保有が指摘されている。」と記述している。
猛毒のサリンは、オウム真理教でも製造でき、実際に東京などで散布され、多数の死傷者を出した化学兵器だ。シリアではアサド政権が反政府軍に対して使用し、多数の犠牲者を出したと伝えられている。
防衛白書は、「北朝鮮が弾頭に生物兵器や化学兵器を搭載しうる可能性も否定できないとみられている。」とも指摘している。
安倍首相は2017年4月の参院外交防衛委員会での答弁で、北朝鮮が「サリンを(ミサイルの)弾頭に付けて着弾させる能力をすでに保有している可能性がある」と語っている。
北朝鮮以外の専制国家も生物兵器や化学兵器を保有、運用する能力を隠し持っているかもしれない。
日本が、核兵器廃絶や核軍縮を模索するとしても、それと同時に、核兵器や化学兵器、生物兵器による日本への攻撃や攻撃の脅しを防ぐ抑止策を講じなければ、恐ろしい被害を受けかねない。
被爆者が語る原爆被害の実相を真剣に受け止めればこそ、世界で繰り返された化学兵器などの悲惨な使用例を知ればこそ、核兵器を利用した抑止(核抑止)は安易に放棄できないのである。
広島・長崎に原子爆弾を投下したのは米国だ。ただし、その米国の核兵器に核抑止がなければ、世界はとっくにソ連の手で共産化していただろう。東西冷戦期の西側が核兵器を放棄すれば、東側から核攻撃を受けたかもしれない。または、核攻撃の脅しに屈して共産化を余儀なくされ、日本を含む世界は、自由も民主主義も法の支配も経済的繁栄も失っただろう。それを防ぐ上で欠かせなかったのが、絶対悪と称される核兵器だったことは忘れてはならない。
そのような逆説に支えられる世界に、私たちは今も生きている。
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榊原 智(産経新聞 論説委員長)
◇◇榊原智氏の掲載済コラム◇◇
◆「胡友平さんと董光明容疑者と」【2024.9.10掲載】
◆「核軍縮だけではHEMP攻撃を防げない」【2024.5.28掲載】
◆「憲法改正で大災害時にも首相を選べる国会に」【2024.2.13掲載】
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