自由な立場で意見表明を
先見創意の会

ソドム郊外の戦い

細谷辰之 [福岡県メディカルセンター医療福祉研究機構主席研究員・日本危機管理医学会専務理事]

信号の命じる停止をなぜ守るのか?車ではなく歩行者の話である。見通しのきく道路の信号、左右見渡しても車の影も形もない。それでも多くの人はじっと青になるのを待っている。中には左右をキョロキョロ怪しげに見渡して、清水の舞台から飛び降りるような覚悟を毛穴から発散させながら、一気呵成に渡ってしまうものもいなくはない。それでも、多くの人は、じっと春の訪れを雪の下で待つ蕗のとうのように待っている。

人類社会は長い時間をかけて、「やってはいけない」ことを規範化し、それを法に昇華させながら、少しずつ秩序を築いてきた。戦争や侵略、大国の横暴、個人間の犯罪や搾取といった事象が繰り返されながらも、全体としては「暴力ではなく法による秩序を重んじる方向」に進んできたのは確かである。

しかし、近年の多くの国で「建前」や「綺麗事」を引っ込め、国家の本音や利己主義を露骨に打ち出す振る舞いをとる指導者が力を得ているように思える。全体主義的な国家での話にとどまらず、民主主義の国とされる国家でもその傾向が見られる。

国家が「正義」や「民主主義」「人権」などの価値観を掲げることには、重要な意味が存在すると思う。たとえ偽善や自己矛盾があったとしても、建前を維持することが長期的な法秩序の強化につながるはずだからだ。例えば、戦後のアメリカ(英仏も)は、多くの戦争や干渉政策を行いながらも、「自由と民主主義の守護者」としてのイメージを保つ努力をしてきた。これにより、他国の独裁政権を牽制する圧力となり、また自国民にも「民主主義を守るべきだ」という規範意識を植え付ける役割も果たしたところもある。同様に、国際社会では「武力で現状を変えてはならない」という原則が定着し、強国であっても、露骨な侵略戦争には慎重にならざるを得なくなっていった。

「建前を掲げる」ことは、国家や国際社会が法秩序を強化し、正当性を維持するための装置として機能してきた。しかし、最近成立した某国の政権は「国益第一主義」や「取引的な外交」を露骨に打ち出し、国際社会のルールや価値観を軽視した。他国の意思を軽視し、国際協調よりも単独行動を重視した。パリ協定からの離脱、WHOからの脱退をした某国のように国際ルールを無視する姿勢を強めた国もある。WTOや国連を軽視し、多国間協力よりも力による交渉を好む傾向が強まった。伝統的に「自由と民主主義の守護者」を標榜してきたアメリカですら、民主主義や人権を掲げることすら面倒くさがるようになったことは、全体主義的な国の「力の論理」を助長する結果となっている。

こうした振る舞いが与えた最大のダメージは、「国際社会における法と規範の価値を低下させたこと」にある。ある国が「建前を捨てて本音で動く」ことで、他国も「じゃあ俺たちもやっていいよな?」という空気になり、力の論理がさらに強まる危険が生じている。この状況が続けば、人類社会の法秩序が大きく後退し、「力の論理」が支配する時代に逆戻りする可能性がある。例えば、ロシアのウクライナ侵攻、中国の台湾問題など、「武力で現状を変えるのはダメ」という規範が弱まることで、国際社会は「ルールを守る側が損をする」世界になりかねない。

国際法はもともと強制力が弱いが、「みんなが守るという信念(法的確信)」によって成り立っている。しかし、大国が「ルールなんて守らなくていい」と言い始めると、国際法そのものが機能しなくなる。国家レベルで「自己利益のために何をしてもいい」という風潮が広まると、国内社会の規範も劣化する。例えば、権力者が自分に都合の悪い法を無視することが当たり前になると、国内の法秩序も揺らぎ、社会全体の不安定化を招くことになる。

歴史を振り返ると、法秩序は一時的に後退しながらも、最終的にはより洗練された形へと進化してきた。20世紀前半は二度の世界大戦で国際秩序が崩壊したが、その結果として国際連盟や国連、人権規範が発展した。1960年代の公民権運動、1990年代の国際人権裁判所の発展など、倫理と法の進化が社会を変えてきた。しかし、これは必然ではなく、痛みを伴う試行錯誤の結果である。もし世界が法秩序の重要性を軽視し続ければ、より危険な時代が到来する可能性もある。

一般には、国際法は「守られていない」「無力である」という認識が強い。国内法の強制と異なり、その規範力の行使が見えにくいことと、国際法が機能していない(十分に機能していない)トピックスが華々しく報道されることもその理由であろう。

しかし、実際には、国際法は国家の行動を強く拘束しており、その影響力は決して小さくない。その証拠の一つが、違反を正当化しようとする国家の行動である。ソ連のアフガニスタン侵攻では、ソ連は「アフガニスタン政府の要請を受けた正当な介入だ」と主張し続けた。国際法的正当性を確保しないと、国際社会の非難を受けることを理解していたからである。ロシアのウクライナ侵攻では、プーチンが「ジェノサイドからロシア系住民を守るための特別軍事作戦」だと主張したのも同じ理由による。国際法違反と見なされることを避けるため、「国際法に違反していない」と言い張る必要があった。アメリカのイラク戦争では、「大量破壊兵器の脅威に対する先制自衛権」と説明された。国際社会が単なる侵略戦争を許さないことを知っていたからこそ、国際法的な正当化を試みたのである。

「たとえ違反する国家であっても、国際法の正当性を否定することはできない」という事実は重要である。本当に国際法が無意味なら、国家はわざわざ言い訳をする必要がないはずだからだ。国際法は、国内法のように強制力を物理的に行使する機関がないため、確かに「脆弱」に見える。しかし、その脆弱さゆえに、国家は違反をした場合に「なぜ違反したのか」を説明しなければならないという圧力を受けるようになる。これが、国際法の規範力がなければ起こらない現象である。

こうした変化は、国際法の規範力が徐々に強まっている証拠である。19世紀には戦争は合法的な外交手段と見なされていたが、20世紀には国際法上違法になった。かつては植民地支配が合法だったが、現在では国際法上禁止されている。国際法の規範力を正しく理解し、支持することが、さらなる強化につながる。もし世界が「建前すら必要ない」という状態になれば、それは法の時代の終焉を意味し、最終的には人類の生存戦略そのものを危険にさらすことになる。

国際法秩序を危うくし、人類の生存そのものを脅かす要因の一つに、「国益」という言葉に縛られた思考がある。「国益」に従順で「国益」を毀損する行為は一切認められない、ほとんど宗教じみた思考である。

情報、経済の無国籍化、グローバル化、そして気候変動や地球環境問題の深刻化により、すでに「国益」は単独で存在できるものではなくなっている。かつては、一国の国力や国益が独立した概念として成り立ち得たかもしれない。しかし、21世紀の現実では、どの国も他国と経済的・技術的・環境的に不可分な関係にある。にもかかわらず、「国益を守る」というスローガンのもとに大衆が団結し、国際協調よりも自国中心の政策を支持する傾向が強まることは、きわめて危険であり、非現実的な考え方だ。

国益という言葉は、本来は柔軟に解釈されるべきものだが、多くの政治家や大衆はこれを「他国との競争の中で自国を優位に立たせること」と狭く捉えがちだ。しかし、現代の国益は、国際社会の安定や協力なくして成立し得ない。経済面では、サプライチェーンはもはや一国の内部に完結するものではなく、世界中に分散している。環境問題では、一国がどれだけ努力しても、他国が気候変動対策を怠れば影響を受ける。パンデミックのような公衆衛生上の危機も、国境を越えて拡散する以上、国際的な協調がなければ防げない。

それにもかかわらず、国家主義的なナラティブの中では、国益はあたかもゼロサムの概念として語られることが多い。特に、自国の利益を守るためには国際協力を犠牲にしても構わない、という発想が広まると、結果的にすべての国が不利益を被る。たとえば、気候変動対策において、ある国が「自国の経済を守るために環境規制を緩める」と決断すれば、結局のところ地球全体の環境悪化が進み、その国自身も気候変動の被害を受けることになる。

「国益を守る」というスローガンに大衆が集まるのは、短期的な視点では理解できる。経済不安や安全保障上の危機が高まると、人々は自国中心の政策を支持しやすくなる。しかし、こうした短期的な自己防衛の発想が、長期的には自国を含めた国際社会全体の安定を損なう。たとえば、国際協調を軽視し、一国のみが「国益」を優先した結果、貿易摩擦が激化し、国際金融市場が不安定化すれば、結局はその国自身の経済成長も妨げられる。

国益と人類全体の利益は対立する概念ではなく、むしろ前者は後者の一部に過ぎない。気候変動対策、パンデミック対応、AIやデジタル技術の規制、宇宙開発のルールづくりなど、21世紀の多くの課題は、国家単位ではなく、人類全体の視点で取り組まなければならない。それにもかかわらず、各国が「国益」という古い概念に固執し、自国の利益のみを守ろうとするならば、結果的に人類全体の存続すら危うくなるのではなかろうか?

したがって、国際社会の秩序を維持し、人類の生存戦略を成功させるために、また現在生存している「国」が今後も安定的に自存していくためには、「国益」を「人類益」として再定義したほうが良いのかもしれない。少なくとも自国の国益が人類益の一部であるというに認識をしたほうが現実的なのかもしれない。自国の利益を確保することが、国際協力と両立する形で行われるべきであり、それを実現するための枠組みとして、国際法の積極的な尊重や多国間協力が不可欠である。この意識の共有が我々がサピエンスを自称できる条件の一つのように思える。個々の国家は「自国のため」に行動しているつもりでも、最終的には共倒れの道を歩むことはできれば避けたい。トゲアリ・トゲナシ・トゲトゲや、ホモ・エレクトスに笑われる存在にはできればなりたくない。犯してはならない「みるな」を犯し、塩の柱になることは、できれば避けたい。

こんな世迷いごとをくどくど考えるのは、信号を渡ってからにしたほうがいい。せっかく青になったのに、また赤の時代が来てしまう。

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細谷辰之(福岡県メディカルセンター医療福祉研究機構主席研究員・日本危機管理医学会専務理事)

◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
「ペルセウスの妻が川を渡る方法を考えて」【2024.12.10掲載】
「Nessun dorma!」【2024.8.27掲載】
「だとすれば」【2024.5.21掲載】

☞それ以前のコラムはこちらから

2025.03.04