AI時代の到来に、日本の教育は対応できるか?
佐藤敏信 (久留米大学教授・医学博士)
前回、生成AIを巡る話について書いたが、今回もその続きのようなものを書くことにした。今年に入ってDeepSeekが全世界の話題をさらったからだ。DeepSeekは、今となってみれば、かなりの部分を知識蒸留(knowledge distillation)に拠っているのではないかとされている。今後、ChatGPTやGeminiなどによってその蒸留が遮断された場合、これまでのように機能を発揮し続けられるかどうかは疑問である。
しかし、それにしても私にとっては大きなショックだった。そもそも、中国はこの分野で大きく遅れていると思われていたからだ。たとえば、生成AIにはNVIDIAなどの新型GPUの確保が必須で、その確保は困難と考えられていたからだ。いわば鎖国状態の中で、こうした方法を見出し、発表したというのはまさに脅威だ。ともかく、この分野でも中国の底力が示されたという他ない。
翻って、我が国はどうか。全く方向性すら見えない。一時期Sakana.AIが注目されていたが、つい最近になって「どうも『釣り』ではないか」という声が出始めた。なぜ我が国ではAI分野で世界的に名を馳せるような企業が出てこないのか。その答えの一つは、どうも教育にあるように思えてならない。生成AIが登場し、その理論的背景に行列やベクトルの概念があると知ったとき、私は大いに驚いた。私自身は数学がとても苦手で、医学部を受験する際にも何度か失敗した。数学ができなければ合格は難しいとされていた。しかし、今になって私よりも数学が得意だった友人たちに聞いてみると、行列がどういう概念かを知らない。そういうことだから、行列の掛け算はすらすらできても、その意味は理解しておらず、したがって実社会でどのように使われているのかも知らなかった。医師、医学者になった時にほとんど利用しないのだから当たり前といえば当たり前と言える。決して彼らを非難するつもりはない。高校の数学教師が、行列とは何か、行列の掛け算などの計算が何を意味するのか、そしてそれが実社会でどのように応用されるのかについて全く教えていなかったからだ。
実は私は1990年頃文部省に勤務し、学習指導要領の作成に関わるお手伝いをしていた。したがって、学校で何をどう教えるべきかについては少なからず関心を持って生きてきた。その経験から考えると、「意味の分からない単元を教え、それを鵜呑みにする生徒がいて、さらに試験に出し、大学入試においてもそれで選抜し、学生となって入学しても在学中はもちろん卒業後もそれらは利用しない。」という我が国の教育制度、流れは、まったくもって不可解である。教育関係者は気づくべきだし、気づいているというなら猛省すべきだ。実際にはそんな気配すらないが。
文部省勤務に関連して言えば、ちょうど「ゆとり教育」が始まる時期でもあった。この「ゆとり教育」は後に大いに批判を浴びたのだが、しかしその批判も的外れである。しょせん「たくさんの単元を時間をかけて学ばせるのか、それとも絞り込んで短時間でいいのか」という程度の議論に過ぎないからだ。
しかし、先ほどの単元の意味を正しく伝えられているのかと言うことより、もっと恐ろしいことがある。そもそも教えている内容自体が間違っているか、間違っていないまでも「無駄」と言うことである。
この点では数学はまだ良い方で、社会科や理科はひどい。例えば、日本の歴史教育では、邪馬台国の所在や古墳時代、飛鳥時代については非常に詳しく学ばされる。しかし、第一次世界大戦がどのような経緯で始まり、どのように終結したのか。第二次世界大戦がどのように勃発し、どのように終わったのか。植民地政策とは何だったのか。帝国主義とは何だったのか。戦争とは外交を含めた主権行使の中でどのような位置づけを持つのか。こうしたことはほとんど教わらないのだ。これで目の前に怒っているパレスチナ問題やウクライナ紛争について、見識を持てるはずもない。
理科も似たようなものだ。医学との関連で言うと、生物がそうだ。農業中心時代の実学である植物や昆虫の話ばかりが中心で、「生物とは何か」「有性生殖とは何を意味するのか」「ウイルスと細菌の違いは何か」「それらは哺乳類とはどのように異なるのか」といった本質的な問いにはほとんど触れない。現代社会において、人間の健康が大事だとするなら「恒常性とは何か」「内分泌とは何か」「免疫とは何か」といったことも教えられるべきであろう。
一部繰り返しになるが、これまでは「たくさんの単元を長時間かけ学ぶかどうか」や「真剣に本を読むかどうか」だけが問われてきたのだが、そもそも現代人が学ぶべき内容が何なのか、そうした内容のいいが正しく伝えられているのかがほとんど問題として認識されていないのだ。
しばしば国際公用語としての英語の重要性が喧伝されるが、実は生成AIの進歩によって英語を含む語学教育の重要性そのものが問われている。私自身は、医学の中では公衆衛生という分野に属していて臨床の経験はほとんどないのだが、今は病院にいて専門外の臨床分野の最新の英語の文献を読む必要に迫られている。前号でも書いたが、ChatGPT-4oなどの力を借りて一日に英文5報ぐらいは平気で読んでいる。しかも論文のポイントはかなり正確に把握できているつもりだ。日本経済新聞はさすがで、2025年1月24日には「AIあるのに、なんで英語勉強するの?」なる記事も載せた。ともかくただ学べばいいわけではない。学ぶ目的をしっかり見極めてそのために何をするべきかをしっかりと考えるべきだ。
せっかくなので、教育内容だけでなく、試験問題についても触れておく。試験問題は設定自体が間違っている。あらかじめ答えのわかっている事柄について、記憶力やパターン認識力を試し、公式を思い出し、それに基づいて解答するというスタイルばかりだ。そうしたことは生成Iによって日を待たずに置き換えられるのだ。また解答と採点の簡便さを追求するあまり、筆記による解答、マルチプルチョイスを採用している。この方法に拘泥する限りは、例えば社会生活・職業生活でしばしば経験する、ジェスチャーも織り交ぜながら、しかも滑舌よく自分の考えるところを正しく的確に伝えるというような能力は全く問われていないのだ。これでは、世界の科学技術の進歩に追いつけるはずがないし、世界に向かって主張もできない。
AIに話を戻せば、高校生時代に、行列もベクトルも空間図形も習ったつもりだけで、そもそもの本質的な意味を理解していないのだから、それを応用してAIのプログラムを書こうとする人が出てこないのも当然だ。製造業でも中韓台に半ば敗北したのだが、こういう分野でもまた追い詰められてしまっているのだ。
一日は24時間しかなく、一年は365日しかない。その限られた時間の中で、何を学び、何を学ばないのか。学ぶ時間をスポーツに充てるのか、それとも芸術を学ぶのか。本来は、個人の人生設計の中で取捨選択しながら学ぶべきであるはずなのに、現状はそうなっていない。スポーツの世界に目を転じると、バスケットボール、野球、サッカーなどで国際的に活躍する選手が出てきており、将来は明るい。しかし、学問・研究の世界はそうではない。この現実を直視すべきである。年の初めから、そのことを改めて考えさせられた。
ーー
佐藤敏信(久留米大学教授・医学博士)
◇◇佐藤敏信氏の掲載済コラム◇◇
◆「学ぶ方法が激変したことで、学ぶ・知ることの意味も激変した」【2024.12.3掲載】
◆「150年に及ぶ日本の近代官僚制度はこのまま終焉を迎えるのか」【2024.9.3掲載】
◆「『新たな地域医療構想等に関する検討会』のスタートに思う」【2024.6.11掲載】
◆「GDPでドイツに抜かれた日本、真のDXで改革を」【2024.3.4掲載】
☞それ以前のコラムはこちらから