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先見創意の会

絶望を希望へと変えた愛情、そして人の縁

松島清彦 

37年ほど前のこと、新婚旅行から戻ったばかりの私を原因不明の体調不良が襲い、翌日には緊急入院を余儀なくされました。診断の結果はB型肝炎でした。その日から、私とこの病との長い戦いが始まったのです。30歳の時でした。

肝炎はやがて肝硬変へと進行しましたが、ここ15年ほどは抗ウィルス剤の効果もあり、いわば“低め安定”の比較的落ち着いた日々を過ごすことができていました。

ところが昨年秋のことでした。定期的な検査の際に、胆嚢に影があると言われたのでした。胆石の疑いがあるということで、精密検査を受けたところ、結石は胆管にも落ちているとのこと。胆管から十二指腸に胆汁を供給する個所を乳頭部と言うのですが、通常の処置であれば、内視鏡手術によって乳頭部から結石を取り出し、乳頭部を縫いあわせて完了というプロセスとなります。難易度の高い手術ではありますが、健康な人なら十分可能な内視鏡手術です。ところが、当時、通院していた大学病院の先生方からは、私の場合はそれが命に関わるほどの難題となると伝えられたのでした。

理由は脾臓にありました。一般の人では大人の握りこぶしほどの大きさである脾臓が、私の場合は肝炎の影響による脾腫により、なんとペットボトル4本分ほどの巨大さに肥大していたのです。そのため、血小板の破壊が激しく、成人男性では20~30万/μLある血小板の数が、私の場合はたったの3~4万/μLしかありませんでした。そのため、ふつうの人にとっては何でもない軽い打撲も、私にとっては内出血が止まらず、大きな青あざになって残るほどでした。つまり、手術によって万が一、大量の出血が起きた場合には、それは私にとってはまさに命取りになるのです。

大量出血に耐えられぬ血小板数、さらに外科手術を困難にするであろう重篤な肝硬変という持病。この二つのリスクを思料した上で、先生方が下した結論が手術を回避する「経過観察」でした。しかし、それは私にとっては「座して死を待つ」に等しいものだったのです。

このまま胆管に結石が落ち続ければ、やがては乳頭部が詰まって胆管炎を起こすことになります。そうなれば、選択の余地無く外科手術をしなければなりません。つまり、今とは比較にならない最悪な状態で手術をすることになります。先生方は「石が詰まる可能性もあるが、詰まらない可能性もある」と言うのですが、それはいつ爆発するかもわからない爆弾を抱えて生きていくようなもので、私にとってはとても耐えられないことであり、言外に「諦めなさい」とほのめかされたのも同然に思えました。

悄然とする私を励ましてくれたのが家族でした。何よりも、弱音を吐く私に「くじけちゃダメ。私が治してみせる」と妻は発破をかけると、さまざまな情報を集め、多くの人に相談するなど、積極的に動いてくれました。そんな妻とともに相談にうかがった方々のうちのお一人が、20年にわたって公私ともにおつき合いいただいてきたNさんでした。私の置かれたのっぴきならない状況を知ると、Nさんは同郷の人でもある内科医師の草野敏臣先生(医療法人社団ミッドタウンクリニック理事長)を、必ずや最適な方向を見出してくれるはずだと紹介して下さいました。わらをもつかむ思いで草野先生を訪ねると、この難題を解決できる人は彼しかいないと、先生はある一人の肝胆膵外科医師への紹介状を書いてくださったのでした。その医師こそが、宮崎勝先生(国際医療福祉大学成田病院院長)でした。

昨年12月、私は宮崎先生のもとで数度にわたる検査を受けることとなりました。そして年の瀬も押し迫った12月28日、先生は開口一番に「胆嚢を切ります」と、その決断の意を伝えてくれました。胆管の中の結石を取り除き、さらに可能であれば脾臓も全摘出するということでした。手術日は年が明けて1月31日と決まり、それに向けたさまざまな検査の日取りも決まりました。

不思議と不安は感じませんでした。身体のバランスがしっかり取れないとよい手術はできないからと裸足で手術をするという、ある意味では生ける伝説的存在でもある宮崎先生を知れば知るほど、先生への信頼はいやが応でも深まっていきましたので、先生が手術をすると決めたのは、手術が成功するという確信があればこそだと、むしろほっと安心したほどでした。

とはいえ、命のかかった大手術であることに変わりはありません。私は一つの大きな決断をしました。小さいながらも経営していた自分の会社を整理し、ビジネスから一切の手を引くことにしたのです。手術が成功した暁には、まったく新しい人生をスタートさせよう、そんな気持ちを胸に、手術のその日までを、私は会社の整理と引き継ぎに費やしたのでした。

いよいよ手術の日がやって来ました。当日になっても、不安な気持ちはほとんど起きませんでした。宮崎先生を信じておまかせする、それ以外の思いはありませんでした。

手術は6時間以上かかりました。もちろん、私には記憶はありませんが、手術室の外で待っていた妻と息子、娘は、3時間で終われば胆管から結石を取るのみ、6時間かかれば脾臓の摘出までと思っていたそうで、6時間後にパットに摘出した臓器を入れてやって来た宮崎先生の姿を見た時には、嬉しくて涙が出たと言っておりました。

さて、麻酔から覚めると、私は集中治療室のベッドの上にいました。天井のシミを見つめながら、「私は生きている」──そう思ったのを今もはっきりと思い出します。

思い返せば、絶望を希望へと変えてくれたのは、まさに人の縁、その妙でした。Nさんが草野俊臣先生を。そしてその草野先生が、困難な手術に果敢に立ち向かう宮崎先生につないでくれたのです。このリンクが無ければ、私は今もなお死の不安を抱えたまま暗い思いで日々暮らしていたことでしょう。そして何よりも私に勇気の何たるかを思い出させてくれた妻、彼女の愛情に心から感謝します。同様に子供たちにも「ありがとう」と伝えたいと思います。


松島清彦

2020.10.20