出アフリカ記
細谷辰之 [日本医師会総合政策研究機構 主席研究員]
遺伝子が受け継がれて来たのであれば、思い出せそうなものだと妄想してしまうが、もちろん思い出せない。多分、僕の脳の中にはそんな記憶はないのであろう。それでもつい思い出そうとしてしまう。何をかというと、馬鹿にされるかもしれないが、アフリカを出たあの日のことである。なぜ、アフリカを出ることになったのか?当時の先祖たちに「アフリカを出る」という認識はなかっただろうし、何らかの理由で移動する過程が、結果として「出アフリカ」になっていたというだけの話であろう。
去年、武漢から始まったCOV ID−19によるパンデミックは世界中で多くの人命を奪っている。人類社会は大きな試練の中にある。
死亡者の数こそ欧米に比べると少ない(こうした表現には書いていて躊躇いと抵抗を覚えるが)東アジアでもコロナ禍による危機は深刻である。
我が国でも2020年12月17日現在収まる気配を見せていない。それどころか、一時緩和されていた行動抑制への要請は再び力を増し、現政権の肝煎りの政策であるGo to travel事業は停止に追い込まれた。
Covid―19の国内感染が深刻になってから、今まで不動だと思われていた日常が非日常にとって変わられた。人と人の間のコミュニケーションの多くがオンラインになった。街ゆく人のほとんどがマスクを着用している。飲食店では無数のアクリル板が空間を仕切っている。大規模な集会やイヴェントの多くは規模縮小したり中止になった。春先から、緊急事態宣言を挟んでずっと続く「非日常」、事業の破綻や、店舗の閉鎖、生活苦からの自死の増加、深刻な状況は終わりが見えない。
ほとんど全ての人が、このコロナ禍の一日も早い終息を熱望していることは想像にかたくない。
テレビやインターネット上で「一日でも早い終息」「かつての日常への回帰」を切望している声を耳にも目にもする。その気持ち、よく理解できる。もちろん「一日でも早い終息」には一片の異論もない。しかし「かつての日常への回帰」については、必ずしも全面的には賛成できない。
現在、感染拡大を防ぐために、人と人の物理的接触を減らし、距離をとることが求められている。「三蜜」を避けることは今や社会の一大原則である。しかし人は1人で生きてはいけない。人と人との接触は生きていく上で極めて大事である。大切な人に会う、ハグや握手、食卓を囲む、歌を歌う、病気を見舞う、議論や会話をする、スポーツを楽しむ、そういう人と人との接触が制限されることは辛い。制限される状態が長くなれば生活も社会の安定も深刻に脅かされる。従って、人が人らしく生きる為に必要な人と人との接触の機会は回復されなければならない。とはいえ、あらゆる種類の人と人との接触の機会がコロナ禍以前の日常に復するのは違うと思う。
感染拡大が深刻化してくるに従い、出勤をせずに在宅での就業に切り替えた企業が増えていった。ある経営者は、1日もはやく元の就業スタイルに戻ってほしいと語っていたが、本当にそれが経営にとって必要で、多くの人を幸せにするのか、この機会によく考えた方がいい。確かに、なにも工夫をせずにただテレワークに切り替えれば、コミュニケーションに困難が生じ、孤立感を感じる社員も増え、業務効率が下がるだけではなく、鬱を発症する人すら出かねない。事実精神医療の現場では、テレワーク鬱と見られる症例の報告は少なくない。しかし、これは工夫と慣れで克服できるのではないか?事実、誰でも入れるチャットルームの開設、オンラインランチ会の開催等で労働環境の改善に成果をあげている企業も多い。また、テレワークでは勤怠管理に手間がかかり業務が増える管理職が多くなるという指摘もある。勤怠管理はやめればいいのではないか?就業時間内でもでも、求められる成果を上げていれば、何をしていても構わないという就業規則に移行する。アルバイトをしようが、昼寝を楽しもうが、自由な就業規則。勤怠管理をしないと業務効率や、期待される成果が低下すると信じられているのだろうが、そこは本当にそうかどうか真剣に考えた方がいい。ヒトという類人猿の特性を考えるとどうもそうでもない気がする。勤怠管理をしなければいけないと思っている人は、「思っている」をよくよく分析をして、ちゃんとした根拠や思考の果てにそれがあるのか、それとも単に思い込みの産物かを、よく吟味したほうがいい。
テレワークが推奨された当初、満員電車での通勤も感染拡大の原因とされた。実際はほとんど会話のない(飛沫が飛ばない)満員電車では感染リスクが低いことが分かった。とはいえ感染リスクが低いから満員電車での通勤はOKだという結論ではあまりに芸が無い。感染拡大につながろうがつながらなかろうが、満員電車で運ばれ通勤するという状況がホモ・サピエンスにとっていいわけがない。コロナを機会に根絶する方法を講じるべきである。全ての人がほとんど同じ時間に出社し、同じ時間に退社しなければならない理由はないはずだ。テレワークの導入にもかかわるが、企業は(公的機関も)従業員に時間と体を拘束することを課するのではなく、仕事をしてもらい成果を上げることを課する体質へ変容した方がいい。
確かに、顔を合わせた方がいい、空気の共有、温度の共有、匂いの共有、そんなことがコミュニケーションに与える影響も大きいかもしれない。でもそんな状態がずっと続かなくてはいけないのか?一日一回でいいのかもしれない、あるいは三日に一回でも事足りるのかもしれない。逆に四六時中一緒にいないことで一緒にいる時間の密度が増すかもしれない。業種、会社などによって事情は違うであろう。それぞれに適合した配分を考えてルールを決めたらいいと思う。なるべく縛らず、なるべく社内滞在時間を短くする方針で新たなそして最も効率の上がる方法を考えたらいいと思う。
その際、俎の上に乗せるべきもう一尾の鯛は、働く中身であろう。大した根拠なく憶測で言ってしまうが、民間企業にしろ、公的機関にしろ、現状でスタッフが行なっている「働く」の半分くらいは本来必要のない無駄ではなかろうか?大した根拠なく、憶測で言っているが、これをいうとかなりの人が「その通りです」「いや、半分どころではありません」と反応する。仕事ための仕事、アリバイ作りの仕事、無駄なルーティン、上司の気まぐれに振り回される仕事、こういう本来なくていい「仕事」を全てやめれば午前中に家に帰ることができるのではなかろうか?かつて教授として勤務していた大学病院で勤務状況についてワークスタディを行った。この結果、医師については医師という資格や技術を要しない仕事に従事している時間が全勤務時間の4割を占めていることが分かった。看護師やコメディカルについてもほぼ同じような結果が出た。病院単体の個別的な経営合理性の範囲を超えて社会全体の生産性を考える上でも示唆的な結果である。
苦労の過大評価はやめ、楽して儲けるスタイルを奨励し、無駄の呪縛から人類を解放するチャンスがCOVID-19から与えられているのかもしれない。感染症との戦いをくぐり抜け多くを学び我々はここまで生存してきた。今回の学びとして、安直にかつての日常に戻ろうとするのではなく、新たな生活様式と社会システムを設計することが求められているように思われてならない。
現在の非日常が厳しい故に、慣れ親しんだかつての「日常」に戻りたいという気持ちを持つのは理解できる。しかし、かつての「日常」が本当に桃源郷だったのか冷静に批判的に吟味することが必要である。現在の非日常は、かつての日常の歪みを是正し新たな社会設計をする機会になりうることを肝に銘じるべきと思う。
アフリカを出た我々は、(残った人も沢山いたのに、出た人間のことばかり取り上げて残った人やその子孫には申し訳ない気持ちでいっぱいである)、各地に分散し、農耕をはじめそれぞれの場所で社会を建設する新たな日常を開始してきた。知恵も歪みも蓄積してきた。リセットでできるタイミングにリセットしておかないと未来は面倒なことになる。
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細谷辰之(公益財団法人福岡県メディカルセンター 主席研究員)
◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
◆「行く道の選択と選択肢の選択」【2020年8月25日掲載】
◆「限界利益という衝撃:大学病院と日本の研究環境」【2020年6月9日掲載】
◆「オホーツクから日本の地域医療を考える」【2019年10月8日掲載】