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先見創意の会

国境を超えると値段が違う

岡部紳一 [アニコム損保 監査役・博士(工学)]

国境を越えると物の値段が違う。物は取引されて値段がつく。人の値段も同様だ。人の取引は許されていないので、人に値段がつくのは人の賠償金を算出する時である。

赤本、青本、日本

損保担当者として長年対人賠償の実務に携わると、人の賠償基準が自然に頭に入ってくる。自動車事は、自賠法、施行令などで保険金の支払基準が決められている。また、東京地裁の裁判例から賠償水準をまとめた小冊子もあり、通称赤本と呼ばれている。これとは別に、日本全国の裁判例をベースにした青本、愛知県版の黄本と色々なものがある。いずれも、裁判所の判決で示された訴訟の集積データから作成されている。日本は、裁判で裁判官が賠償額を決定するが、弁護士や損保実務家などのマニュアル・教科書となっている。

米国流、素人に任せなさい

海外でも同じようにやっているのであろうと思っていたが、まったく間違っていた。現役時代に海外の訴訟、特に米国で日系企業が提訴された訴訟の実務を長らく担当していた。対人賠償の民事裁判は原告と被告の戦いの場といえるが、そこは日本の相撲とアメリカンフットボールほどの違いがあるように思われる私の率直な感想である。

米国の民事訴訟は陪審員による裁判が一般的である。陪審員は地区の住民から選ばれるので人の賠償に、全くの素人の人たちがほとんどである。6人から12人の陪審員は、原告被告の双方の主張と証人の証言を聞きた後で、陪審員だけでディスカッションして賠償すべき金額(評決額)を決める。米国の訴訟手続きでは、専門家裁判官ではなく素人の判断が求められ、陪審員が主役である。

素人の陪審員が判断するゆえに、その賠償額の水準が訴訟事案毎に大幅に振れることになる。被害者(原告)が陪審員の同情を引き付けてしまうような可哀そうな負傷状況だったり、美貌の女性だったりすると、被害者(原告)側が同情票をかき集めてしまい、防御の被告側は最初からかなりのハンディを負って防御させられる。原告弁護士は巧みに感情的なアピールを行い陪審員の同情を掻き立てるべく法廷戦術を取ってくる。陪審裁判ゆえの戦術である。

また、日本の訴訟では、原告の請求額以上の賠償額が認められることはないが、米国では原告が訴訟で要求した金額以上が下されることがある。これも私の理解できないことであった。

人の値段に反映される社会的文化的要素

移民が多く、マルチカルチャー社会である米国は、提訴される訴訟地の人種構成や所得水準などにも大きな違いあり、考え方や金銭感覚も一様ではない。陪審員が判断する評決額もその社会的文化的な要素が反映され、地域的な差が大きい。全米50州の訴訟に携わっていたが、州別に賠償金の水準が異なる。より正確に言えば、同州内でもカウンティ(郡)によっても大きく異なる場合がある。訴訟の当事者も驚く予想外のとんでもない高額の賠償額が出されることで、全米でも有名な、法曹界や損保業界にとっては、悪名高いというべきカウンティがいくつかある。損害保険会社の立場からみると、判決額の予想、つまり、将来の支払い保険金の支払い見込み(損保会計上は支払備金)を算定が非常に難しくなることを意味している。

ニーズがあれば、サービスが生まれる

米国にはこのような訴訟社会を反映してか、面白い裁判ドラマが多い。現在も大手ネットワークCBS系で放映中の異色な法廷ドラマがある。この数年視聴率ランキングの上位をキープしている人気番組である。ドラマでは裁判科学と名付けられた心理学分析の手法を使って陪審員を分析し、コンサルタント会社と弁護士が訴訟を有利に導いていくという筋書きである。私も楽しんでいるが、なかなか面白いドラマとなっている。

前述のように陪審裁判で敗訴判決額の予想が難しい状況で、ニーズあればそれに対するサービスも生まれてくる。TVでとりあげられたようなコンサルティング会社は、かなり以前から存在している。実際に私も訴訟事案で起用したことがある。全米の地域別の賠償額の傾向を分析して情報提供するだけでなく、実際の個別の訴訟でも、その訴訟地で予想される陪審員を集めて模擬裁判をやることもある。模擬の陪審員がどのような判断をするのか、被告側の主張点のどの部分に心を動かされるのか、防御側の主張のどこが受け入れられないのか、最終的にどれぐらいの金額が判断されるのかを試してみるのである。これを本番の訴訟に活用する。模擬裁判の結果から、状況が非常に厳しい場合(つまり、高額判決で敗訴の可能性が高い場合など)、訴訟外での和解解決を目指すことになる。

道理にかなった賠償金とは

米国では対人賠償訴訟の中で、医療過誤と航空機事故が、他よりも賠償金額が高いと言われている。2000年頃、医療過誤訴訟が急増し、その賠償金の保険金に支払いの急増により、保険料も急増したことがあった。そのため、医師(特に産科医)が保険料を支払えないために廃業する事態となり、医療過誤クライシスといわれ社会問題となった。そのために、医療過誤訴訟での慰謝料(非経済的損害)に上限額を設定した州法が制定された州が出てきた。
 
航空機訴訟に関係している欧米の航空会社やその弁護士などをコンファレンスが開催されたことがあり、私も参加したことがあった。この業界では著名な弁護士が参加していた。なかに、高額判決を勝ち取ることで有名な米国の原告弁護士も参加しており、これはいいチャンスと思い、彼にかねがね疑問におもっていた素朴ながらストレートな質問をぶつけてみた。「日本では、標準的な賠償水準を決めて、それを定期要することが安定的に公平な賠償額の算定ができるが、米国の陪審裁判では予想しがたく、かつ不公平と思えるが、陪審員制度をどう思うか」と。彼は、「陪審裁判はsensibleである」と短い返答をもらった。はて、sensibleとはなにかと、少々考え込んでしまったが。 本稿を書く前に、ネイティブスピーカーの友人にもう一度言葉の意味を聞いてみた。sensibleとは,「賢明な、道理にかなった」と英和辞典には書いてある。

日米の民事訴訟の大きな違いは、裁判官が主役の日本と異なり、米国の陪審裁判は、陪審員が賠償責任の有無および、賠償額についても判断する主役である。その事実認定に対して法律を適用するのが、いわばレフェリーの役割の裁判官である。陪審員で選ばれる素人ではあるが、住民の意見が尊重される判決内容となっている。陪審裁判の結果、宝くじの当選額のような法外な評決額が出されることがあっても、陪審員制度は、社会の住民の判断を尊重することが根本にある。私には不公平で安定的でないと思うが、賠償金に大きな差が生じる不都合と思われることよりも重視されている。日本の赤本、青本は、判決額の予測可能性が極めて高く、公平であるといえる。ただ、直接的に住民の判断を反映したものは言えないだろう。上記の「sensible=道理にかなった」とは、米国のマルチカルチャーの社会では、住民の判断を求めることが道理にかなっていると、この弁護士は考えていたのであろうと思うに至った。

人の値段は、社会的文化的な産物

車の値段が人の命よりも高いという時代が、日本にも、中国にも、タイにもあった。日本では、私の生まれる前のことであるが、中国、タイは、数十年以内のことである。社会の進歩、または変化によって、賠償金も上昇している。生活水準がアップするだけでなく、考慮する要素の変化も含まれていると思われる。 

米国の陪審裁判は、国際的にも異例である。米国法の本家というべき英国では、例外的な場合を除き、民事裁判では陪審裁判は実施されない。日本も裁判員制度を導入したが、刑事訴訟だけである。米国の訴訟社会は、過剰な弁護士数、提訴しやすい手続き、陪審裁判などが要因ともいわれることが多いが、その対極にあると思われる日本社会は、弁護士数、裁判官数が少なすぎるためもあると思うが、訴訟解決が非常に遅い。果たして、社会が求める紛争解決手続きとして、その役割を十分にはたしているのかと疑問を投げかけたくなる。社会にとって、道理にかなった訴訟制度という面から、私には考えさせられる一語でした。

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岡部紳一
アニコム損保 監査役・博士(工学)

◇◇岡部紳一氏の掲載済コラム◇◇
◆「レジリエンス、組織の心、人の心」【2021.3.2掲載】

2021.06.03