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先見創意の会

医の倫理と法

平沼直人 (弁護士・医学博士)

『法と医の倫理』

1987年に第2版が出版されたJ.K.メイソンとR.A.マッコール-スミスの『法と医の倫理』(勁草書房,1989年)の目次を見てみよう(筆者において多少整理)。
第Ⅰ部 序
 第1章 医の倫理の展開
第Ⅱ部 生殖医学
 第2章 性に関する法律の改革
 第3章 現代の生殖技術
 第4章 避妊
 第5章 妊娠中絶
 第6章 胎児のふるいわけと不法な生
 第7章 不作為による新生児殺と選択的非治療
第Ⅲ部 医療
 第8章 医療上の秘密保持
 第9章 治療への同意
 第10章 医療過失(ネグリジェンス)
 第11章 医療資源と治療上のジレンマ
 第12章 老人医療
第Ⅳ部 死
 第13章 死の判定
 第14章 臓器の提供と臓器移植
 第15章 安楽死
第Ⅴ部 研究と実験
 第16章 生物医学的人体実験
 第17章 小児に対する研究および胎児実験
第Ⅵ部 精神医学と法
 第18章 人間の権利,精神医学と法
 第19章 精神医学と刑法

AI,遠隔診療など新しい問題は生じているが,既に30年以上前に問題はほぼ出尽くしており,かつ,少しずつ前進はしているものの,未だに多くの問題が解決していないことが分かる。
なお,本書の訳者は,国立病院医療センター脳神経外科医長(当時)・医学博士・法学士の塚本泰司氏である。

“医療倫理の4原則”

医療倫理の4原則とは,次の4つである。
① 無危害原則(nonmaleficence)
② 善行原則(beneficence)
③ 自己決定原則(autonomy)
④ 正義原則(justice)
1979年にビーチャムとチルドレスが,もはや医療倫理のバイブルとなった『生命医学倫理』(トム・L・ビーチャム,ジェイムズ・F・チルドレス,第5版,立木教夫・足立智孝監訳,麗澤大学出版会,2009年)において,提唱したものである。

医療倫理の4原則が法律家,とりわけ実務法曹によって取り上げられることは少なく,過去の判例においても,医療倫理の4原則に直接,言及しているものを寡聞にして知らない。

患者の自己決定権と憲法13条

日本国憲法第13条は,次のとおり,定める。
「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」

日本国民は,幸福を追求する基本的人権を有している(憲法13条後段「幸福追求に対する国民の権利」)。
それじゃあ,幸せって何だろう。
何が幸福なのか,自分自身のことについては自分自身で決められるよう保障されなければならない。
それゆえ,自己決定権は憲法上の幸福追求権に含まれるものと考えられている。
表現の自由(憲法21条),思想・良心の自由(憲法19条)などの古典的な人権に対して,自己決定権,自己決定の自由は新しい人権とも呼ばれるが,特に医療の場で,患者の自己決定権が重視されるに至っている。

なお,もし興味を持っていただけたのなら,医師法第1条に定める医師の使命と憲法第25条に定める生存権・福祉国家の理念の関係につき,拙著『医師法 超入門』(公益財団法人 労災保険情報センター,2020年)36‐37頁をご覧いただければ幸いである。

乳がん切除事件最高裁判決――患者に熟慮し判断する機会を与えるべき義務

最高裁判所は,平成13年11月27日,次のとおり,判決で述べた(かっこ内は筆者注)。
「本件についてこれをみると,被上告人(被告医師)は,開業医であるものの乳癌研究会に参加する乳がんの専門医であり,自らも限界事例について1例ながら乳房温存療法を実施した経験もあって,乳房温存療法について,同療法を実施している医療機関も少なくないこと,相当数の実施例があって,同療法を実施した医師の間では積極的な評価もされていること,上告人(原告患者)の乳がんについて乳房温存療法の適応可能性があること及び本件手術当時(平成3年)乳房温存療法を実施していた医療機関を知っていたことは,前記(省略)のとおりである。そして,上告人は,本件手術前に,乳房温存療法の存在を知り,被上告人に対し本件手紙を交付していることは前記(省略)のとおりであり,原審(大阪高裁)の認定によっても,本件手紙は,乳がんと診断され,生命の希求と乳房切除のはざまにあって,揺れ動く女性の心情の機微を書きつづったものというのであるから,本件手紙には,上告人が乳房を残すことに強い関心を有することが表明されていることが明らかであって,被上告人は,本件手紙を受け取ることによって,乳房温存療法が上告人の乳がんに適応しているのか,現実に実施可能であるのかについて上告人が強い関心を有していることを知ったものといわざるを得ない。そうだとすれば,被上告人は,この時点において,少なくとも,上告人の乳がんについて乳房温存療法の適応可能性のあること及び乳房温存療法を実施している医療機関の名称や所在を被上告人の知る範囲で明確に説明し,被上告人により胸筋温存乳房切除術を受けるか,あるいは乳房温存療法を実施している他の医療機関において同療法を受ける可能性を探るか,そのいずれの道を選ぶかについて熟慮し判断する機会を与えるべき義務があったというべきである。もとより,この場合,被上告人は,自らは胸筋温存乳房切除術が上告人に対する最適応の術式であると考えている以上は,その考え方を変えて自ら乳房温存療法を実施する義務がないことはもちろんのこと,上告人に対して,他の医療機関において同療法を受けることを勧める義務もないことは明らかである。」

最高裁は,医師には,患者に対して,治療の選択肢のうち,「いずれの道を選ぶかについて熟慮し判断する機会を与えるべき義務がある」という道理を示した。そして,「診療契約上の説明義務を尽くしたとはいい難い」と断じて,患者の訴えをしりぞけた大阪高裁判決を破棄し,事件を同裁判所に差し戻したのである。

4原則とこれからの法的課題

乳がん切除事件は,医療倫理の4原則に即していえば,主として③の自己決定原則(autonomy)の問題として争われた。
その他の3原則については,次のようなことが特に気に掛かる。
①の無危害原則(nonmaleficence)では,終末期(人生の最終段階)の治療中止や進んで安楽死・尊厳死について,法的問題が未解決である。
②の善行原則(beneficence)については,治験や臨床試験において,プラセボ群に当たった患者・被験者との関係で,彼らにとって最善の利益が図られているか,突き詰めた議論が予想される。
④の正義原則(justice)といえば,トリアージに関する法整備が急務ではなかろうか。

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平沼直人(弁護士・医学博士)

◇◇平沼直人氏の掲載済コラム◇◇
「江戸三山」【2021.12.14掲載】
「日本版 ❝善きサマリア人法❞を!」【2021.10.7掲載】
「無」【2021.7.27掲載】
「”賠償科学”を知って欲しい!」【2021.5.6掲載】
「美少女画」【2021.4.6掲載】

☞それ以前のコラムはこちらからご覧下さい。

2022.04.07