イノベータ理論
平沼直人 (弁護士・医学博士)
出会い
高校3年生の私は、政治経済という科目の授業で、ロジャーズの“イノベータ理論”を知った。
技術革新が起きたとき、すぐに飛びつくのではなく、ちょっと様子を見て、とはいえ、ひとに先んずることが大切だと習った。
座右の銘というほどではないが、金言として受け止めてきた。
名著『イノベーションの普及』
エベレット・ロジャーズ(Everett M. Rogers 1931-2004)は、イノベータ理論の創始者であり、その著『イノベーションの普及』(Diffusion of Innovations 1962)は、社会科学分野の古典であって、引用書籍として1、2を争うともいわれる(三藤利雄訳『イノベーションの普及』翔泳社(2007年。2003年の第5版の翻訳)の訳者あとがきには、「社会科学分野での引用書籍で第2位」との話が取り上げられている)。
本書は堅苦しい学術書のようでいて、興味深い話題の宝庫である。
目の前にパソコンのキーボードがあれば、ご覧いただきたい。1から0までの数字のキーの1段下に、左からQWERTYとキーが並んでいる。そこで“QWERTYキーボード”と呼ばれるのだが、これはタイプライター時代の名残りで、よく使われるキー同士が機械的に絡まり合わないようキーを配置したものだ。1932年には作業効率のよいドボラック・キーボードが開発されているのに、我々は手根管症候群に悩まされたりしながらも、まだQWERTYキーボードを使い続けている。まさかタイプライターのセールスマンがQWERTYの段のキーのみを使ってTYPEWRITERと鮮やかに叩き出してみせるために、そのままにしているのではあるまい。ロジャーズにとっても解明できない謎なのか、「読者はすでに推測しているだろうが、本書はQWERTYキーボードでタイプされたものである」(同書15頁)としっかりオチがついている。
その他、紹介し切れないが、東芝のラップトップPCの誕生秘話(同書61頁)は、まるで東芝日曜劇場のドラマを観ているようだ。半沢直樹の世界。
イノベーションの採用者カテゴリー
「イノベーションとは、個人あるいは他の採用単位によって新しいと知覚されたアイデア、習慣、あるいは対象物である」(同書16頁)。
イノベーションを最も早く採用した人たち、すなわち革新性が最上位にある人を「イノベータ」と呼ぶ。イノベーションを開発した人のことではない。念のため。
以下、採用の早い順に、「初期採用者」、「初期多数派」、「後期多数派」といい、最も遅いグループを「ラガード」(laggard のろま)と呼ぶ。
(同書229頁には、有名な「革新性に基づいた採用者カテゴリー」のグラフが掲げられていてる。)
しかし、私が記憶していたのとは異なり、ロジャーズは「初期採用者」となることを特には推奨していない。
ただ、第5章「革新性と採用者カテゴリー」の扉で、アレクサンダー・ポープの次の言葉をエピグラフとして記している。「新しいものを試す最初の人間になるな、そして古いものを捨てる最後の人間になるな」。
ロジャーズは、イノベータには、「意外の利潤」と「意外の損失」があるという。
自身が1980年に2000ドルで家庭用VTRを購入したところ、1990年には販売価格は100ドルにまで下落、しかもVHSではなくソニーのベータマックスであったことを白状していて面白い(同書437-438頁)。
イノベータはハイリスク・ハイリターンということであろう。
ロジャーズは、「革新性と必要性のパラドックス」を指摘する。つまり、「最もイノベーションを必要としている人たちが最後に採用するというパラドックスが生まれる」(同書249頁)。
その一因として、「最小抵抗のセグメンテーション戦略」が挙げられる。簡単にいうと、イノベーションを受容する能力の高いエリート層にイノベーションは提供されやすいということである。
もっとも、「インターネットの登場は、革新性と必要性のパラドックスを克服する新たな方法を提供することになるかもしれない」(同書250頁)。
空容器の誤謬
イノベーションが普及する際に重要な役割を果たすのがチェンジ・エージェントである。
チェンジ・エージェントとは、外部からイノベーションの採用を促す専門家のことであり、オピニオンリーダーが社会システムの内部で影響力を行使するのと異なる(同書37頁)。
イノベーションの普及を通して、コミュニケーション論が展開される。
チェンジ・エージェントがしばしば陥るのが、「空容器の誤謬」である。
空容器の誤謬とは、イノベーションをまだ採用していない人は何も書かれていない白紙のようなもので、新しいアイデアに関する経験は何もないと勘違いすることである(同書195頁)。
イノベーションを導入するに当たっては、「両立可能性」の視点を忘れてはいけない。
両立可能性とは、イノベーションが既存の価値観、過去の体験、そして潜在的採用者のニーズと相反しないことである(同書178頁)。
政府が家族計画を上から押し付けようとしても、例えば、インドではダイという伝統的な産婆がIUD(子宮内避妊具)についてまことしやかな悪い噂を流して、政府の施策を頓挫させた(同書198頁)。
ラテンアメリカの“クランデロス”のような偽医者を侮ってはいけない(同書197頁)。
アメリカにはアーミッシュという昔ながらの生活を続ける人たちがいる。
「アーミッシュは一般的な意味で革新的ではないが、彼らの文化的価値と矛盾しないイノベーションを採用することに関しては、非常に革新的なのである」(同書239頁)。
イノベーションは“新しい酒”かもしれないが、それは“古いビン”に注がれるのである(同書196頁)。
「弱い絆の強さ」理論
ロジャーズは、グラノベッターの「弱い絆の強さ」(“The Strength of Weak Ties”1973)という考え方を紹介している。
新しい情報というのは、ごく親しい仲間と付き合っているだけでは得られるものではなく、たまにしか会わない知人、かつての同僚のような人からもたらされることが多いという。
イノベーション伝達の鍵は、“異類性”にこそある。
ただ、双子コーデのように、「強い絆の強さ」(同書306頁)というべきものも当然のことながら見逃せない。
エリフ・カッツは、イノベーションの普及について、ことわざを持ち出して、「タンゴを踊るには、2人必要なのである」(“it takes two to tango”)と書いている(“Notes on the Unit of Adoption in Diffusion Research”1962)。
看護師に期待されること
生活習慣病の患者に行動変容を望むとき、チェンジ・エージェントたる医師とクライアントたる患者をブリッジするのが補助者たる看護師の役割である。
「診療所のサービスの質を改善する方法の一つは、看護師などのスタッフを訓練して、クライアントが診療所に訪れたときにはまず挨拶をし、(中略)話をよく聞き、目線を合わせて笑顔で語り、クライアントとの間に密接な関係を築くことである」(同書352頁)。
ここで注意しなければならないのが、「補助者によるにせの職業意識」の弊害である。にせの職業意識とは、補助者が専門能力をもつチェンジ・エージェントの服装や話し方などの識別マークをよそおうこととされる(同書365頁)。
「にせの職業意識は、チェンジ・エージェントの補助者が担っている異類間のブリッジという役割を台無しにしかねない」(同書366頁)。
チーム医療が定着した今日において、この考え方がどこまで維持されるべきかは、検証を要するところではある。
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平沼直人(弁護士・医学博士)
◇◇平沼直人氏の掲載済コラム◇◇
◆「食」【2023.6.20掲載】
◆「行動経済学が変える!」【2023.4.6掲載】
◆「ICと医療法」【2023.1.5掲載】
◆「三大奇書」【2022.9.13掲載】
◆「タトゥー最高裁決定と医業独占」【2022.8.4掲載】
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