自由な立場で意見表明を
先見創意の会

岡口判事の弾劾裁判 罷免は行き過ぎだった

桐山桂一 (ジャーナリスト)

交流サイト(SNS)への投稿で殺人事件の遺族を中傷したなどとして4月3日、仙台高裁の岡口基一判事(当時)が弾劾裁判で罷免された。

裁判官の罷免は約11年ぶり。1947年の制度開始以降8人目になるが、表現行為を理由としたのは初めてだった。

本当に「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」に当たるのか。罷免は不当と筆者は思う。弾劾裁判の判決にどんな問題があるか考えてみたい。

まず裁判官を罷免できる唯一の方法が弾劾裁判である。①職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠ったとき②その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったとき―。この二つの場合に限られる。

罷免されれば、裁判官の職を失うだけでなく、法曹資格をも剥奪される。だから弁護士にもなれない。退職金も出ない。不服申し立てもできない。

一方的に厳しい不利益を課すため、弾劾裁判では刑事裁判の規定を準用している。刑事裁判と同様の厳格な手続も必要になる。

その点から、まず一つの疑問点が浮かぶ。訴追事由は2017年から2019年にかけた、殺人事件の被害者遺族や別の民事訴訟の原告に関する計13件の投稿や発言だった。2021年6月に国会議員で構成する訴追委員会が罷免を求めて訴追した。

だが、訴追期間の3年を過ぎた行為まで訴追事由に含めている。つまり時効なのだが、訴追委は「一体として評価すべきだ」とし、判決までそれを受け入れた。

「行為全体を評価した場合、一つのまとまりのある行為群として(中略)『事実関係の一体性』があると評価できる」(判決)

だが、被害者はそれぞれ異なっているし、事実関係にも一体性は認めようがないではないか。

しかも、各投稿について「訴追委員会の主張は採用できない」などと、もっぱら訴追委員会側の主張を排斥しているにもかかわらず、なぜか結論は「罷免」に至る。いったい弾劾裁判所は何を基準に判断したのだろう。

一つは「裁判官に対する一般国民の尊敬と信頼」である。もう一つが「国民の信託への背反」である。だが、これらの基準はあまりに漠然とし抽象的すぎて、どんな幅広い解釈をも許しうる。

しかも、その認定は「弾劾裁判所を構成する裁判員の良識に依存する」「弾劾裁判所の裁量に属する項目であって、通常の要証事実のような立証責任は問題にならない」とも判決はいう。

このような曖昧な事実認定の方法を認めてしまっては、どんな恣意的な判断をも生み出してしまう。国会議員はまさか神ではあるまい。誰しも疑問に思うであろう。

東京弁護士会が「証拠に基づき事実を認定する証拠裁判主義を正面から否定する内容になっている」と非難したのも当然である。

つまりは「行為」ではなく、岡口氏の「人格」をまな板の上に置いているのだ。

実際に判決も「究極において潜在的には裁判官の人格が判断の対象になっている」と述べる。だが、刑事裁判の被告人も裁かれるのは「行為」に対してであって、弾劾裁判も同じはずだ。人格を裁く裁判などありえまい。

しかも罷免するには「著しい非行」でなければならない。判決が最も重視したのは、遺族が受けた心の傷である。確かに一般的に人を傷つけてはならないし、遺族の辛い気持ちは理解する。

だが、岡口氏には悪意がなかったし、心を傷つける目的もない。刑事裁判と同じように、弾劾裁判でも行為の動機・目的をも含めて判断するのは当然ではないか。

つまりは論理的ではないのだ。結論ありきだったのではないか。今回の判決では繰り返し「(岡口氏が)傷つけるつもりはなかったとしても、結果として感情を傷つけた」と述べた。

つまり遺族感情を前面に打ち出して、「表現の自由として裁判官に許容される限度を逸脱した」と結論づけたが、「表現の自由」への考察がどれだけあったのか。あまりに浅慮すぎると思う。近代法の世界の裁判ではなかったのだ。

このような前例は恐ろしい。裁判官の思想信条などにかかわる表現行為についても、弾劾裁判所の裁判員たる国会議員の思惑次第で「国民の信頼を損なう」と判断されかねないからである。

憲法では裁判官の強固な身分保障をしているが、政治家によって、こんな曖昧模糊とした基準や理由で罷免されては、他の裁判官たちは政治の力の前に縮み上がってしまうであろう。

これでは憲法が裁判官に与える強固な身分保障も軽くなりかねない。大衆迎合的な濫用の恐れも出てくる。その意味で三権分立さえ脅かす悪影響をも生むことを懸念する。

過去の罷免事例は児童買春やストーカー行為、電車内での盗撮など犯罪行為ないし犯罪に類する不正行為である。

「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」とは、そのようなケースを言うのではないのか。SNSでの不適切な発信に厳しい世間の風潮はあるが、憲法の趣旨に照らしても、もっと厳格に吟味し、もっと慎重に判断するべき問題だったと思う。

何よりも表現行為と相手の不利益を考えれば、岡口氏は既に相応の制裁を受けていた。

最高裁から二度の戒告を受けたし、殺人事件の遺族が起こした民事裁判では東京地裁が名誉毀損を認めた。本人も謝罪し、裁判官の職も辞すことを表明していた。「罷免」という、それ以上の制裁を科したことは行き過ぎだったと思う。

表現行為で罷免された初のケースだったが、法学者からも「裁判官としての威信を著しく失うべき非行には該当しない」との趣旨の論文が多数、発表されてもいた。

岡口氏は専門書を多数執筆し、積極的にSNSに投稿する、異彩を放つ裁判官だった。さまざまな社会問題を取り上げ、啓蒙的な投稿が目立った。社会の少数派に寄り添う市民派でもあった。

差別発言の乱発さえ不問に付す政治の世界の人々が、一裁判官の表現の過ちを容赦なく叩き、法曹の資格まで奪う―。弾劾裁判が今回のように、政治家が非論理的な世界で裁判官に苛烈な懲罰を加えうる仕組みであるならば、権限の濫用を生まない歯止めも考える必要があるのではないだろうか。

ーー
桐山桂一(ジャーナリスト)

◇◇桐山桂一氏の掲載済コラム◇◇
「参院選の「一票の格差」国政への主権力に差を付けるな」【2022.12.6掲載】
「福島原発事故訴訟 危険性のグラデーション」【2022.9.1掲載】
「『3K政治』に抵抗して」【2022.1.6掲載】

2024.05.09