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先見創意の会

『構造と力』と医と法とわたし

平沼直人 (弁護士・医学博士)

ニューアカ

1980年代に一世を風靡したニューアカデミズムの代名詞が浅田彰の『構造と力』だった。
1983年9月、勁草書房から出版され、思想書ながらベストセラーとなった。1981年に出た栗本慎一郎の『パンツをはいたサル』(光文社)、1983年7月の中沢新一『チベットのモーツァルト』(せりか書房)もニューアカブームの立役者だが、やはりニューアカといえば『構造と力』、これである。
私は1984年に大学に入り、早速、『構造と力』を読み始めたのだが、途中で読むのをやめたか、拾い読みか斜め読みして、それで本棚に並べておいた。

文庫化という事件

90年代には、もうすっかりニューアカのブームは去っていて、それなのに『構造と力』だけは、いつか通読せねばと思っていた。思い出したように試みたこともあった。そんな折、昨年末に刊行から40年の時を経て、文庫になって再登場と相成ったのである(『構造と力』中公文庫、2023年12月25日発行)。「これは事件だ!」という書店員の声が紹介されたりした。
けれども、私はすぐには飛びつかなかった。昔、最後まで読めなかったものが、今、文庫になったところで、どうして読み切れるといえようか。
そうこうするうちに、夏休みになって、大型書店をうろうろしていると、平積みされたガルシア=マルケスの『百年の孤独』(鼓直訳、新潮文庫、2024年7月1日発行)が目に入ってしまった。それで、私はこう思った。『百年の孤独』を読む前に、『構造と力』を読まなければならない。

あにはからんや、さほど苦しむこともなく、読了できたのである。
文庫化されたことで、電車の中など、いつでもどこでも読めたのと、スマホの存在が大きい。“テロス”といった言葉が注釈なしで出て来る。1980年代ならば、哲学思想辞典で調べるか、まるで電話帳みたいな『現代用語の基礎知識』で探さなければならなかった。それが面倒で、文意がたどれなくなり、挫折する。ところが、スマホがあれば、すぐに“テロス”とはギリシャ哲学の用語で完成や目的を意味することが分かる。「顫動」に振り仮名がない!1980年代であれば、漢和辞典で調べる。部首が分からず困る。今やPCを開いて手書きで入力すれば、「せんどう」と読み、意味は「細かく震えること」だとすぐさま分かる。“整流器”の喩えが多い。整流器って何だっけ?浄水器みたいなものか。そんな読み方をするから、訳が分からなくなるのだ。交流(AC)を直流(DC)に変換する装置のことではないか。スマホなら実物の写真まで見られる。
(それでもまだ通読するのが面倒な方は、文庫に収められた千葉雅也の解説をお読みになるといい。こちらが実によくまとまっていて、分かりやすい。)

分析とコード

「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」(19頁)、流行語にもなった。あとがきに、「チャート式参考書のように明快に」(292頁)、書くことを心掛けたとある。私はチャート式って好きじゃなかったけど、浅田彰は弱冠26歳、若書きというか、青臭い。表紙のデザインを飾る“クラインの壺”の作り方を図示するところなんか遊び心そのもの。ただ、言われるままに作ってみたが、40年前も今もそのとおりには出来上がらない。

さて、思い切って本書を5文字で表せば、「ラカンの本」だ。
ジャック・ラカン(1901-1981)は、フランスの精神分析家。フロイト、ユングとともに三大精神分析家である(医学部の授業終わりに学生から第三の男はラカンではなくアドラーではないかと質問された。『嫌われる勇気』が社会現象になり始めた頃だった)。
本書第3章は、「ラカン 構造主義のリミットとしての」であり、同章5に本書タイトルである「構造と力」がある。本書は、社会構造を描き出すことに意義を認めつつ、構造自体はスタティックであり、それだけでは動きは生まれず、そこに働く力を見出すことこそポスト構造主義であるというのだろう。何にせよ、あの頃はまだ精神分析がきらきら輝いていて、旧態依然たるアカデミズムの垣根を軽々と超えてゆく武器になると信じられていた。

そして、ラカン以上に本書を通底しているのが、ドゥルーズ=ガタリの“脱コード化”の理論である。王や父といった絶対者たる中心を垂直方向に戴く古代専制国家を超コード化と呼び、その中心が失われた近代資本制を脱コード化と呼ぶ。コードとは、法律やルールのように人々を縛りつけるもののことといってよい。フェリックス・ガタリ(1930-1992)は精神分析家である。神が死んだ近代資本制社会の下では、人々は不安に駆られて金儲けや出世といった一方向に無暗に走り続けることで、問題を先送りにして、かりそめの安定をむさぼっている。

ニューアカは、学際化であった。浅田彰は京都大学経済学部卒業である。
(なお、本書のサブタイトル「記号論を超えて」に論及するいとまはないが、クリステヴァ(1941-)の紹介と読み込みがこれに当たるのだろう。)

リゾーム

精神分析がすべてを解決してくれるのではないか、それは叶わぬ夢のような気がする。何かを媒介にして学際化しても、1つにはならない。ハブ(hub)という考え方は、むしろ近代以前の超コード化の思考方法ではあるまいか。医と法を量子力学から理解し融合しようとする私どもの試みなど、心なき者から現代の錬金術と笑われよう。

『構造と力』は、ドゥルーズ=ガタリの提唱するリゾームを展望しつつ、稿を閉じている。リゾームとは地下茎(根茎)のことであり、ツリー(整然とした樹形図のような)の対語で、二元論ではなく多方向に展開する関係性の謂いである。
医と法が外からは見えない根っこの部分で絡まり合っているとすれば、時間はかかるかもしれないけれど、医から始めてもやがて法にたどり着くことができるし、法から始めてもやがて医にたどり着くことができるはず。
そう信じて進んでいこう。

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平沼直人(弁護士・医学博士)

◇◇平沼直人氏の掲載済コラム◇◇
「センター調査報告書」【2024.6.13掲載】
「小保方 佐村河内 有栖川」【2024.3.12掲載】
「遠隔医療の法的問題」【2024.2.8掲載】
「イノベーター理論」【2023.10.5掲載】

☞それ以前のコラムはこちらからご覧下さい。

2024.10.10