自由な立場で意見表明を
先見創意の会

コミュニケーションギャップ

水谷 渉 (弁護士)

日本人同士で、日本語で話をしているはずなのに、「言葉」の使い方が違っていることに気が付かないまま、コミュニケーションをとると、いらいらと不安が募る。この人は自分と考えが違う人なのだろうと思い、つい遠ざけてしまう。そんな不幸は避けたい。

医療者と法律家の間では受け止め方が異なる言葉がある。

浜秀樹判事は、「すべきであった」という言葉が、医療者と法曹との間で異なるニュアンスで用いられていることを指摘している(注1)。つまり、法曹にとって、「すべきであった」とは、当然しなければならないことをしなかった、という過失の前提を意味する言葉として使用される。他方、医療者にとって「すべきであった」とは、予見できない異常事態についても「今後はそういうことも想定しなければならない」という意味で使われることを指摘している。つまり、レトロスペクティブに再発防止を啓発するために、「すべきであった」を使っている。

もう一つ例を挙げたい。

法律家にとって「証明」は、勝負を分ける大事なポイントである。証明のあり、なしは、裁判官の心証によってきまってしまう。訴訟法の教科書を紐解けば、証明の程度については、民事訴訟と刑事訴訟で異なっているとされる。民事訴訟については、原告の証拠と被告の証拠を比べたうえで、どっちの証拠が説得的なのかで証明のあり、なしが相対的に判断される。これに対し、刑事訴訟では、もっと重い証明が必要で、「合理的な疑いを入れない程度」の証明が求められる。つまり、疑わしきは罰せずの原則の下で、この人が犯人でないという、それなりの根拠(合理的な疑問)があれば、有罪とされないのである(注2)。

これに対し、医療者にとって、証明とは、真実を証拠を用いて立証することであろう。たとえば、ある薬剤が効果があると「証明」されているかどうかは、エビデンス(治験の成績など)があるかどうかで判断されている。

このため、裁判では「証明はされているが、立証できない。」ということが起こる。つまり、医学や科学の分野で証明されていることであっても、裁判官が理解しないか、または、政策的な目的(たとえば弱者救済)があれば、科学的な証明があるのに、それとは逆の結論に至ることもある。また、「証明されていないが立証できた。」こともありうる。つまり、科学的なエビデンスはないが、裁判官がそう思えば裁判上では立証ありということになる。

「医と法」の相互交流において、すべきことの第一は、人の言葉に耳を傾け、自身の言葉をよくよく見つめることではないかと考えている。

<参考文献と引用元>
注1. 浜秀樹「すべきことと否定できないこと」【判例タイムズ1355.47-51,2011.11】
注2.「証明」とは、「①ある物事や判断の真偽を、証拠を挙げて明らかにすること。②数学および論理学で、真であると認められているいくつかの命題(公理)から、ある命題が正しいことを論理的に導くこと。論証。③訴訟法上、当事者が事実の存否について、裁判官に確信を抱かせること。または、これに基づき裁判官が確信を得た状態。」【デジタル大辞泉(小学館)】

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水谷渉(弁護士)

◇◇水谷渉氏の掲載済コラム◇◇
◆「特養あずみの里の刑事裁判に寄せて」【2020年9月3日掲載】
◆「医療・介護の現場における刑事事件」【2020年3月10日掲載】

2021.01.07