ゲーテと頼近さんとサンシャイン60と
滝田 周 [(株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長]
スポーツ好きでは決してないくせに、体を動かしていないと人一倍ストレスがたまる。出不精だが、インドア派でもない。こんな厄介な性分ゆえ、昔から、ひとり黙々と体を動かすことを何かしらやってきた。たとえば自転車。クロスバイクを改造しまくった時期もあったが、そんな楽しみと体を動かす楽しみが、主従逆転してきた。お金もかかる。それでいつしか、並行して続けてきた水泳だけになった。
ところが3年前、コロナ禍のせいで、どこのプールも閉鎖になった。「疲れ切る」を英語でexhaustという。「使い尽くす」という意味もある。名詞では車の排気ガスを指す。この「エグゾースト」という語感が、泳いだ後の、心身の夾雑物をすべて吐き出した、あの感じそのもので好きなのだが、泳げるプールが一切ない。ココロの中、カラダの中にexhaust=排ガスがたまり、イライラが嵩じていく。本当に困った。
そこで、ウォーキングを始めた。会社の行き帰り、なるべく長く歩くだけだが、水泳を再開した今も続いている。さいたま市在住の私は、京浜東北線と山手線を使い東京23区内の職場に出てくるが、途中下車していろいろ歩くのが楽しい。飽きないのだ。
北区でなぜゲーテ?
たとえばこの夏、8月某日の通勤ルートは次のようなものだった。東京・城北エリアの地理に明るくない方も、すみませんが、しばしお付き合いください。
まず、京浜東北線を王子駅で降りる。隣接する飛鳥山公園を突っ切り本郷通りに出るがすぐ右に折れ、緩い坂道を南西方向へ下っていく。この何の変哲もない住宅街の通りを、地元・北区役所は「ゲーテの小径」と名付けた。「北区でなぜゲーテ?」と、誰しも訝るが、坂の途中にある「東京ゲーテ記念館」に由来する。ゲーテに心酔する明治生まれの実業家が、もともとは渋谷に建て、その後、この地に移転してきた由。建物はRC造なのだろうが、石造りを模した重厚な外観をまとう。「基本原典のほか、明治・大正・昭和期の初訳本、研究書、雑誌、新聞切抜きなどを収蔵している」と、公式サイトにある。
ゲーテといえば、旧制高校的な教養主義が思い浮かぶが、件の実業家氏は、今でいえば「ゲーテおたく」なのだろう。一見、なんの接点もなさそうな教養主義とおたくだが、知識の量を誇ったり微小な差異にこだわったりする(悪く言えば衒学的な)傾向、蒐集癖/コレクター癖など、類似点は多い。文化は、思いもかけぬ形で継承される。というより、時代が変わっても、人間は言うほど変わらないということかもしれない。
歩くと脳の血流が良くなるせいか、いろんなことが浮かんでは消える。「昔から、あらゆる分野におたくが棲息しているから、日本という国は強いのだ」と、上から目線で論評する一方、「ゲーテなんか読んだこともないくせにエラソーに」と自己批判。休む間もなく次の瞬間には、「俺は『論評する人』ではなく『実践する人』になりたい」と痛切に願った高校時代の思いが甦る。にもかかわらず、実践すべき何物をも見つけられず馬齢を重ね、ここまで来てしまった。相変わらず論評もする。心の中、苦い悔恨と暗い自己嫌悪が、水に落とした墨汁のようにとりとめもなく広がっていく(面倒くせぇ奴)。
とにかく世間の耳目を集める人だった
ひとり勝手に落ち込んだまま坂道を下り切ると、いきなり視界が開ける。「西ヶ原みんなの公園」だ。なんて投げやりなネーミングなんだろう。これも北区役所の仕業だ。「みんなの」じゃない「公」園なんて存在するのか? と、またもや批判。論評。
それはさておき。ここは、2000年に東京西郊、府中市に移転した東京外国語大学の跡地である。数多の人材を輩出してきた東外大だが、私にとっては頼近美津子(よりちか・みつこ)さんをおいてほかにない。広島県出身。アナウンサーとしてNHKに入局した翌年の1979年、『ばらえてい テレビファソラシド』の司会進行役に抜擢される。番組を企画した永六輔氏がアシスタントを務め、途中からレギュラーとなったタモリ氏は、頼近さんをミドルネームの「キャサリン」と呼び、よくいじっていた。
当時中学生だった私は、ブラウン管の前で頼近さんの美しさに打たれた。英語がペラペラなのはもちろん、ピアノも弾ける。『潮騒のメロディ―』を、先輩の女性アナウンサーと連弾していたのを思い出す。真剣な眼差しで譜面を追う、その横顔の美しさは、もはや神がかっていた。こんなきれいな人が世の中に居ていいのか、とさえ思った。
頼近さんはその後、フジテレビに引き抜かれ、1981年には、ダイアナ妃ご成婚をロンドンから生中継した。同じ広島出身、同じ東外大卒でライバルと目された田丸美寿々氏が一緒だった。皇室とも親交の深い英王室の慶事を生でレポートするという重責もものかは、無邪気にはしゃいでいた二人は後に、「女子アナ」の嚆矢とされた。
その数年後、頼近さんは、フジサンケイグループ創業家の御曹司・鹿内春雄氏と結婚する。とにかく世間の耳目を集める人だった。
往時茫茫。生生流転。たばこが吸いたい
ところが、ほどなくして春雄氏は40代の若さで病死。「鹿内 キャサリン 美津子」さんは、グループ株の相続をめぐるトラブルに巻き込まれ、結局、義父の手でグループから放逐されたとメディアは報じた。報道を肯定も否定もしなかった頼近さんはその後、クラシックコンサートの企画・司会などを手掛けていたが、食道がんを患う。声帯を守るため手術はせず、抗がん剤のみでの治療だったが薬石効なく、2009年、不帰の客となった。享年53。眩すぎた前半生のせいで、後半生の影が際立つ人生だった。いや、ご本人がどう思っていたかはわからない。傍目にはそう映ったというだけの話だ。
そんなことを思い出しながら、公園を見渡す。草野球なら3、4面は取れそうな広さだが、国立大のキャンパスにしては、こぢんまりしている。頼近さんがここで学んだのは1970年代半ば、昭和でいえば50年代初頭で、もうすぐ半世紀になる。炎天下、人影もまばら。陽炎が立ち、遠く芝生の緑がゆらゆら揺れている。かつて多くの学生が蝟集したこの地は今、長い午睡に入ったかのようだ。往時茫茫である。
先に挙げた方々の中で現し世を去ったのは、頼近さんだけじゃない。ダイアナ妃も永六輔氏も、もういない。何事も何人も、同じ姿のままとどまることはない。田丸美寿々氏は、テレビで観なくなって久しい。タモリ氏の露出がぐっと減ったのは、終活に入ったためと伝えられる。自分のことを言えば、坊主頭で体育着が普段着だった田舎の中学生が、もうすぐ還暦だ。我ながら信じ難く、受けいれ難い。
だが、人の想いなど一切顧みることなく、すべては、この瞬間にも移ろい続けている。生生流転。一番容赦ないのは時の流れだ。禁煙したが、久しぶりにたばこが吸いたい。
東京は、生者も死者も密度が高い
公園を出て道路を渡り、細い路地に入ると豊島区。すぐに墓地に突き当たる。都営・染井霊園である。もはや汗だくだが、着替えは持ってきた。気にせずがんがん歩く。
木々と墓石、マンションの合間から、サンシャイン60と豊島清掃工場の高い煙突が見え隠れする。猛暑のせいで朝から猛々しく立ち昇っている積乱雲をバックにすると、遠近感・スケール感が狂うのか、サンシャイン60が墓石に見えてくる。煙突は卒塔婆だ。そういえばサンシャイン60は、かつて巣鴨プリズンだった。東條英機はじめ7人のA級戦犯と53人のBC級戦犯が、刑場の露と消えた。その跡地にぶっ建てた高層ビルが墓石に見えても、平仄は合う。
東京は、生者も死者も密度が高い。それゆえ、無防備でいるといろんな想念が湧き、疲れることもあるが、退屈はしない。だから歩き続けることができる。直近の400年余り、この国の「センター」を張ってきた歴史、蓄積は伊達じゃない。当たり前だが、さいたまとは格が違う。さいたまは歩いてても、すぐ飽きますもん。
霊園を抜け、国道17号に出る。白山(はくさん)通りの名もあるこの道を、あとはまっすぐ南下するだけだ。左手に巣鴨駅を見つつ山手線を跨ぎ、しばらく行けば文京区。そろそろ今日の仕事の段取りなどを考えなければならないが、なんせ頭ん中は、往時茫茫、生生流転である。ここから仕事モードに切り替えるのは、なかなかの力業だ。
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滝田 周 [(株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長]
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