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先見創意の会

行動経済学が変える!

平沼直人 (弁護士・医学博士)

だって、人間だもの

行動経済学(behavioral economics)の第一人者、リチャード・セイラー(1945-)シカゴ大学ブース・スクール・オブ・ビジネス教授は、“にんげんだもの”で知られる相田みつをのファンだそうである。

行動経済学は、最近では人口に膾炙(かいしゃ)するようになり、知的ブームの様相すら呈している。
行動経済学を医療・公衆衛生に応用する取組みも話題にのぼるようになった。

セイラー教授といえば、ナッジ(Nudge)、ナッジといえば、行動経済学である。
ナッジとは、軽く肘でつついて行動を促すことであるが、ナッジの最も有名な実例は、アムステルダムのスキポール国際空港で、男性が小便器で用をたすときに、無意識に狙いを定められるよう、小便器の排水口あたりにハエの絵を描いたところ、小便器の外への飛散が80%も減ったというものである(リチャード・セイラー『行動経済学の逆襲〔下〕』遠藤真美訳ハヤカワ・ノンフィクション文庫,2019年242頁)。
行動経済学は、よほどトイレと相性がいいのか、群馬県の道の駅でトイレットペーパーの盗難が相次いだため、トイレ内に「盗まれるほど人気」というポスターを貼って、実際に店舗でトイレットペーパーを販売してみたところ、途端に盗難が減ったそうである(2022年2月25日付け朝日新聞夕刊)。

シカゴ市警察では、駐車違反のキップを車のフロントガラスにワイパーで挟んでいたが、通りかかる運転手に違反キップがよく見えるように、鮮やかなオレンジ色の違反キップをサイドガラスに接着剤で貼り付けるという方法に切り替えている(前掲書140頁)。これもナッジである。

行動経済学とは

行動経済学の創始者、ダニエル・カーネマン(1934-)が、2002年、プロスペクト理論でノーベル経済学賞を受賞した。プロスペクト理論とは、不確実な状況における意思決定モデルであるが、名前は適当につけたようである(セイラー前掲書〔上〕57頁)。カーネマンは、心理学者である。
そして、もう行動経済学からはノーベル賞はないだろうという大方の予想を覆して、2017年、セイラーがナッジ理論などでノーベル経済学賞を受賞した。セイラーは、経済学者である。
そう、心理学+経済学=行動経済学、なのである。

では、行動経済学は伝統的な経済学とどう違うのだろうか。
(伝統的な)経済学は、観念的な人間の合理的な判断を前提に理論が構築されている。アダム・スミスの有名な言葉、“神の見えざる手”によって、市場は均衡を得る。合理的な経済人(ホモエコノミカス)をセイラーは簡単に“エコン”と呼ぶ。
これに対して、行動経済学は、ありのままの人間の不合理な行動を直視する。SIF(Supposed Irrelevant Factors)といって無関係とされている要因が意思決定に重大な影響を及ぼしたりする。
それは、“アノマリー”(例外事象)に過ぎないと伝統的な経済学は攻撃する。
しかし、行動経済学は、実験経済学の手法をもって実証的にアノマリーを集積し続けている。
そうして、コペルニクス的転回の如く、天動説が唱える周転円のような場当たり的な修正で溢れかえったとき、パラダイムシフト(トマス・クーンの科学革命)が起きるのではないか!(セイラー前掲書〔上〕288頁)
そのとき、経済学の人間像は、“エコン”から“ヒューマン”となるのだ。

医療行動経済学の驚きの発見

医療と行動経済学は、親和性があるとされ、医療行動経済学が誕生している。カーネマン、その盟友、59歳で早逝したエイモス・トベルスキー(1937-1996)、セイラーの3人が共同執筆した論文は、1篇のみであるが、そこにはイリノイ大学シカゴ校の医療意思決定科学の教授が加わっている(セイラー前掲書〔下〕43頁)。
『医療現場の行動経済学:すれ違う医者と患者』(大竹文雄・平井啓編著、東洋経済新報社,2018年)から、2つの研究成果を取り上げたい。

1つは、健康意識の高い(リスク回避的な)女性ほど乳がん検診を受けないという南フロリダ大学の予想外の報告である。
フランスや日本でも同様の研究結果が報告されている。

もう1つは、利他性の強い看護師ほどバーンアウトしやすいという、現場では皆うすうす勘づいてはいたものの、ショッキングな研究結果である。
ウォーム・グローと呼ばれる、“他者の役に立っている自分が好き”という気質のほうがバーンアウトしにくいことが分かっている。

いずれも原著をWEB上で読むことができる。
佐々木周作ら「リスク選好が乳がん検診の受診行動に及ぼす影響」行動経済学9巻2016年132-135頁
佐々木周作ら「看護師の利他性と燃え尽き症候群」行動経済学9巻2016年91-94頁

懸念 < 期待

ナッジ理論に対しては、特定の意思決定を押し付けるパターナリズムではないかという批判があるが、これに対して、セイラーは、自由な意思決定を保障し、間違った意思決定をしないようにサポートするものに過ぎないと応じている。

医療分野に経済原理をそのまま導入することはできない。伝統的な経済学の市場原理が妥当しないのと同様に、行動経済学的な方法を医療の世界に安易に持ち込むことは戒めるべきである。医療においては、公正さが強く求められ、ズルい振舞いに、人々は不快感を示し拒絶することを肝に銘ずべきである(セイラー前掲書〔上〕227頁)。

ともあれ、行動経済学がことさらに“行動”を名乗る必要がなくなり、ただのノーマルな経済学になる日も近いのではないか。
そして、行動科学(behavioral science)が、心理学の亜種の如きものではなく、経済学のみならず、医学、法学などすべての学問領域を束ねて、まだ見ぬ地平を切り開くことになるのではないか。そうワクワクしながら期待している。

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平沼直人(弁護士・医学博士)

◇◇平沼直人氏の掲載済コラム◇◇
「ICと医療法」【2023.1.5】
「三大奇書」【2022.9.13掲載】
「タトゥー最高裁決定と医業独占」【2022.8.4掲載】
「悪」【2022.4.26掲載】
「医の倫理と法」【2022.4.7掲載】

☞それ以前のコラムはこちらからご覧下さい。

2023.04.06