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コラム
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「恋するように子育てしよう!」 河原 ノリエ
(掲載日 2005.10.25)
「恋するように子育てしよう!」の表紙 「恋するように子育てしよう!−ちょっぴりややこしい子とあなたがしあわせになるために」という本を中央法規出版からだしました。

 いつも書いている芸風とあまりに違っていて、読んで、「カワハラさんって、こういうひとだったんですか!」って、椅子からズリ落ちたひともいたようですが、いたってまっとうな子育て本のつもりです。

 巷には、子育て本が溢れています。しかし、教育論をいいよどまずに、滔々と論ずる人々に仄見える、口元の胡散くささを、ほんとうは多くのまっとうなオトナたちはわかっていると思います。

■傷ついているママたち

 ただ、どういうわけだが、みんな子育てに悩むと、安直にマニュアル化され、親がこどもをしつけたという納得度のはっきりするための道筋がわかるものにとびつき、こどもに押し付ける。その際たるものが、百マス計算、音読の大ブーム。それをまた、脳科学で「証明」しちゃうひとたちまで、でてきての大騒ぎ。

 (音読で脳の血流が増えても、だからそれでアタマがよくなったなんて、科学で証明されてはおりません。作業仮説を学説と取り違え、原著論文には書いてないことまで、おひれをつけて、サイエンスのお化粧をする。「日本の脳科学者は、因果関係と相関関係の違いもわからぬ専門家集団になりさがったのか!」と、いつもの芸風で、今発売中の岩波「世界」11月号では、理研の伊藤正男先生ら、脳科学者相手にかみついておりますので、ご興味のある方はごらんください。座談会「脳科学は教育をかえるか?」です。)

 わたしは、この少子化の時代に逆行して、4人のこどもをダラダラ産んで、足掛け18年も小学生のママをやります。この本はもともとは、ちょっぴりややこしい子(最近注目を集めることが多い発達障害(ADHD、LD))といわれる子たちのママたちの自尊感情の建て直しを目的とした本だったのですが、思いがけず、いろいろなママたちに読んでいただいているようです。

 ママたちは、実はとても傷ついているのです。こどもを産み育てていくということは、おもいがけない自分自身のこころと向き合うはめになったりもするセンチメンタル・ジャーニーです。実は、たいしたことでもないのに、教育評論家たちの言葉におののき、スクールカウンセラーなどにいってかえって悩みを深めていくことが増えています。こどもがお墓の絵ばかり書き出したら、「自殺願望があるんじゃないか」と、心療内科につれていき、よく話を聞いてみたら、ゲゲゲの鬼太郎にはまっていただけ、なんて話がゴロゴロしている。

■恋を乗り切った女の智慧には子育てのエッセンスがたっぷり

 なぜそうなるかといえば、みんな少子化で、ひとりっこが多いし、まわりも、「こどもってそういうものだよ」って、昔だったら近所の先輩ママが教えるようなこともない。社会のなかの大切なつながりが絶たれ、智慧が継承されないのです。

 子育てというのは、自分の来し方、行く末を映す鏡のようなもの。教育論者の自己満足のように吐き出される薄っぺらなもので、マニュアル的に乗り切れるようなものではない。

 わたしもカミングアウトすれば、上の二人の子には、超過激お受験ママでした。いわゆる、勝ち組なのでしょうが、今から考えると、児童虐待スレスレでした。そういう親子の抱える闇の深さもたくさんみてきましたが、歪みは必ずどこかにでるものです。

 8年前に、てのひらに載るような、超極小未熟児の双子を産みました。「多くを望まないでほしい」という医者の言葉は、多くを望み、こどもを自己実現の道具のようにしてきた愚かなママには、受け入れることがどうしてもできないことでした。しかも、これは自分がなぜ、お受験ママにはまってしまったかという自分自身の暗い闇をも抉り出すことだったのです。神様って残酷。でも葛藤の日々のなかで、ほんとうに大切なものってなにかをまなびました。

 恋するようになんて、ふざけた話だとお思いになるかもしれませんが、実は、恋というひとつの概念装置のフィクションを設定しなければ、救われないほど、いまのママたちのココロは深く傷ついている。どんなにりっぱな教育者がいても、ママのココロが不安定ではこどもは自分の力を伸ばしていけない。それは、いろいろな親子に出会い、その先をみてきて学んだ、たったひとつのことです。

  子育てしているママたちは、みんなオトナの女です。恋をして、泣いて笑って、結婚して、セックスして、こどもを産んだ。ちゃんと、人生を地に足をつけて生きている、大人の女です。「もてないオヤジの意趣返し」のような、つまらないお説教をなぜありがたく聴かなければいけないのか。ひとがひとを育てていくということは、そんなきれいごとの子育て論で乗り切れるような柔な問題ではなく、人生をかけた真剣勝負です。ひとは無数のまちがいをおかすもの、ずたずたになりながらも自分のこころと向き合って、こどものこころに寄り添っていかなければならない。

 人間関係のなかで一番濃密な感情のやりとりは恋をしているときです。恋をしているとき、女のひとは一生懸命、智慧をひねります。相手がいま何を考え、どうしてほしいとおもっているのか。距離感をどうもてばいいのか。恋を乗り切った(成就してでもできなくても)大人の女の智慧のなかには、子育てに使えるエッセンスがたっぷりあるのです。恋はひとりひとりのもの。他人の価値観を借りて恋をしましたか?子育てだって、自分の価値観でいいのです。

■ママの智慧で育まれる子供の多様性

 子育ては女の人生の大事な一部です。こどもやダンナや社会のためにあるのだけにあるのではありません。ママがこの子と生きている時間を、おばあちゃんになってからココロの宝石箱から取り出せるような想いを重ねていくことが実は、こどもをちゃんと育てることにつながる。目先のつまらないことに惑わされないで、どこまで遠くまでみられるかが、勝負です。

 わたしはこの夏、ふたつのイベントを企画し、世話人となりました。ひとつは、以前このコラムでも紹介した、アジア各地の研究者との「知的共有基盤の形成は可能か?」というシンポジウム。そしてもう一つは、8月に、北京から算数オリンピックに参加するためにやってきた100人の中国人の子供たちと日本のこどもたちを交えた日中サイエンスセミナー(IBMが後援してくれました)。(※注)

 こうしたなかで、これから伸びていこうとする、アジアのパワーに触れてみて思うことは、多様性としっかり向き合う力を育てていかなくては、これからは、この国は生き延びてはいかれないということです。

 わたしは、仕事柄、多くの研究室を回ります。みんなが一様に嘆くことは、新しいものを作り出そうという覇気のある子がいなくなり、みんなスマートに均質だという点です。脳みその墓場です。学力低下だと騒ぐのもいいのですが、狭い学力感のなかに押し込めて、目先の小さいことにこだわって、どんどん小粒人間の増産に加担していく。目端のきく、若者ばかりの状態に危機感はないのでしょうか。

 こどもの多様性は、一番、一緒の時間の長い、すてきな恋をしてきたママの智慧ではぐくまれるもの。次世代の産業競争力は恋愛技術力に学ぶことがいっぱいあるはずなのです。 人間はあきる動物。ひとのココロをキャッチする技こそ大事。これからは、コンテンツ勝負の時代で、マネーゲームにさらされても生き延びることができるのは、オリジナリティーのあるセンスで自分自身をセルフプロデユースできるひとです。けして、マニュアル化された子育て術で作られたこどもではないはず。

 男のひとは、どこかのアナリストの受け売りで、未来予測をしながら生きているような気でいますが、存外家族を食べさせるためにお金を稼ぐという重荷のなかで、視野の短期化がすすんでいます。

 その分、家庭の主婦は、洗濯物を干しながら空を見上げて、こどもの30年後とかにも想いを膨らます余裕があるのです。わたしは、母性とは、遠くまでみえることだとおもいます。ひとがひとを育てるということが含みもつ、やわらかな膨らみと意味の深さを考えたうえで、国力は教育基盤のうえにあると、いってもらいたいとおもうのです。そういう意味で、この本を、「憂国のママ」の書でもあると、お読みいただければ幸いです。

 なーんていう、お説教は行間にとどめて、ほんとは、すてきなイラストの絵本です。フランス語のすてきなタイトルがついて、フランス映画の「アメリ」の気持ちでつくりました!

※注) 「Asian High Technology Network」のホームページで過去のワークショップについて閲覧可能。

参考) 独立行政法人・産業技術総合研究所
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