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コラム
今週のテーマ
「スピンされる世論<連載1> −操作される国民の生面倫理観」 澤倫太郎
(掲載日 2006.12.05)
1. スピン・シティ

「僕にとって幹細胞研究は重要だ。ES細胞研究推進派の民主党に一票を」

 パーキンソン病に対する闘病生活で知られる人気ハリウッド俳優マイケルJフォックス氏が出演したミズーリ州の民主党候補を応援CMが、中間選挙を控える米国で放映され、波紋を呼んだ。

 幹性胚細胞(ES細胞)は受精卵を壊して作成される万能細胞であらゆる細胞へと分化できる。パーキンソン病は大脳の産生細胞が分泌するカテコラミンの一種ドパミンが枯渇することで発症する神経細胞疾患。ES細胞はこのドパミン産生細胞にも分化が可能で治療効果も期待されることから、31歳の若さでパーキンソン病と診断されて以来15年間、フォックス氏は一貫してES細胞を含めた神経細胞再生医療推進派の広告塔を勤めてきた。しかし今回のような直接的な政党支持を表明したのは初めてだ。

※ ヒトES細胞研究推進派のもうひとりの代表的キャンペーン・リーダーは、落馬事故で脊髄損傷を負い、首から下が麻痺状態になった元スーパーマン俳優のクリストファー・リーブ氏で、2002年、英国においてヒトES細胞樹立を容認する「ヒトの受精と胚研究に関する法律」改正の際には、彼は文字通り「車椅子のヒーロー」として、推進派世論をドライブする重要なキーマンを演じた(リーブ氏は2004年10月に亡くなっている)。

 「やりすぎだったかもしれない」と感想をもらすのはカリフォルニア在住の筆者の古くからの知人で民主党系政策シンクタンクの研究員。もはや先の見えたブッシュ共和党政権。30%台の低い支持率に加えて、イラク派兵の根拠の曖昧さとアンフェアが致命傷となり、放っておいても「なだれ」をうって反ブッシュに傾きつつあった票の流れだが、ここへきて、「ヒト受精卵の研究使用の是非」という極めてデリケートな領域の選択肢を争点にしなくてはならなくなったからだ(結果は、激戦のすえ、僅差で民主党の勝利)。

 「アメリカ国民はイラク戦争に疲弊している。争点はイラク戦争是非の一本に絞るべきだ。妊娠中絶の是非や同性愛者の結婚、受精卵を使用する生命倫理の是非をめぐる問題は確かに重要な政策論争だが、スピンの材料にはなじまない。次回の大統領選では使えない。」

 スピンとは政府やマスコミがメディアを通じて世論を操作すること。世論操作の専門家はスピン・ドクターと呼ばれ、「スピン」による無党派層の集票は、古くから選挙戦術のひとつとして用いられてきた。最近ではわが国でも政府機関のなかに広報担当官が常設され、情報統制とモニタリング、情報分析の結果を政策立案に生かすという。

 選挙戦の論点を1つの争点に絞り込んだり、特定の争点を浮かび上がらせたりするのも、スピン・ドクターの手腕にかかっている。

 「倫理というのは個人の価値観が最も反映される。無党派層に対するプロパガンダによって、そう簡単には左右されないのが倫理観だ。」

 フォックス氏の代表作でもある高視聴率ドラマ「スピン・シティ」(ABC放送、1996−2002)の中で彼は、つねにトラブルをおこすニューヨーク市長の補佐官を演じた。補佐官の最も重要な仕事のひとつはメディアから目線をそらすために、あの手この手で世論操作をしかけることだ。「スピン・シティ」は生き馬の目を抜くニューヨーク市の政界の舞台裏をシニカルに描いた現代シチュエーション・コメディーの代表作だ。

 パーキンソン病の発病によってこの人気ドラマを降板してから6年後、マイケル・J・フォックスは、いままさに現実の「スピン・シティ」でリアルな「スピン・メーカー」を演じている。

2. スピンされる日本の生命倫理観

 「禁じ手」であるはずの「生命倫理へのスピン」が堂々とおこなわれている国がある。ほかならぬ日本である。

■祖母が孫を産む

 「代理出産を支持する世論も見られるようになってきた。政府全体で世論の帰趨(きすう)を慎重に見極めながら(代理出産の禁止を)再検討したい」

 長野県の産婦人科医が50代後半の女性が娘夫婦の受精卵を胚移植して代理出産したとの報道を受けて、柳沢伯夫厚生労働大臣は10月17日の閣議後の記者会見でこう表明した。

 「祖母が孫を産む事態を本当に社会が許容しつつあるのか?」

 多くの国民が首をかしげるのは当然だ。この大臣発言の中の「代理出産を支持する世論」とは一部メディアのスピン(情報操作)により意図的に作られたものだからである。この事実はメディアの間では良く知られている事実だが、無論報道はされない。まずはこの事実を指摘しておきたい。ことの経緯を説明しよう。

■代理懐胎の方法

 そもそも代理懐胎には、児を望む不妊夫婦の受精卵を体外受精させ第三者の子宮に胚移殖させるホスト・マザー(IVFサロガシー)型と、夫の精子を第三者の子宮に人工授精するサロゲートマザー型がある。朝鮮半島に伝統的に残る「男子を産むための『シバジ』制度」はサロゲートマザー型、生殖補助医療が普及した現在はホスト・マザー型が主流である。

※ 代理懐胎・代理出産に潜む人権問題と現場の混乱については、以前に本サイト・オピニオン欄に掲載の拙稿を参照されたい(韓国ES細胞捏造事件の闇の奥(2006年5月12日掲載オピニオン) >>)。

■混乱の発端・スルーされた分娩母ルールの原則

 今年9月29日、タレント・カップルがアメリカ・ネバダ州のホスト・マザーによる代理出産によって出生した双子の出生届けを、東京都品川区が不受理とした問題で、東京高裁が出生届受理命令の決定を下した。民法における「分娩母(ぶんべんはは)ルール」の原則を簡単にスルーした決定であった。

 これに対し区は、「受理・不受理は戸籍法で定められているのであり、区が判断できない」として法務省と協議に入った。長勢甚遠(ながせじんえん)法務大臣は10月3日に閣議後会見で「母子関係は分娩の事実で発生することになっており、高裁判決には問題が残る」とコメント、10月10日品川区は最高裁への許可抗告を同高裁に申し立てた。

■代理出産の事実の公表

 この法務省の判断を不服として、10月15日、長野県諏訪市の不妊クリニックN院長が、自らが施した生殖補助医療によって、手術による摘出によって子宮のない娘の卵子を体外受精した受精卵を、閉経した50代後半の母親の子宮に胚移植し、昨春、出産に至ったことを公表した。

 平成16年、妻が結婚後に子宮がんで子宮摘出術を受けた30歳代の夫婦において、妻の卵子と夫の精子を用いて体外受精を行い、受精卵を妻の実母(50歳代後半)の子宮に移植した。平成17年春、代理母は約2,400gの児を出産するに至った。子は戸籍上、代理母の実子として届けられた後、夫婦の子として養子縁組がなされた。つまり法的な手続きはクリアされている。「問題提起とするため」とN医師だが、「なぜいまこのタイミングなのか?」という視点から見れば、いささか乱暴な論理展開だ。

 実はN医師の会見は読売新聞医療情報部によってセッティングされた。今回のN医師は今回の公式発表の終わりをこう締めくくっている。

 「今後も、このような事実を読売新聞を通じて、公表していきたい」

 読売新聞医療情報部とN医師の関係は旧い。N医師が減胎手術(不妊治療で子宮内に着床した多胎を妊娠初期に、薬物などを用い、選択的に死滅させる手術。現在の法体系では母体保護法に定める堕胎方法にはあてはまらないグレイ・ゾーンの技術である)の実施を報道したのをきっかけに、平成10年6月には、姉妹間での卵子提供による妊娠・分娩(つまり遺伝上は夫と妻の妹の子どもを妻が分娩した)をスクープして、その年度の新聞協会賞を受賞している。

 以降、平成15年の日本初の代理出産の事実の公表や学会や国に見届けのまま、習慣流産の着床前診断をおこなっていることを発表するなど、すべてN医師と読売医療情報部とのタッグ・チームで行われてきた。

■なぜこのタイミングの公表か?

 N医師はこれまで計5例の代理懐胎(すべてが出産に至っているかどうかは不明)を実施している。うち2例はすでに平成15年3月に報道されたものであり、残りの3例は、今回の1例を含めて、平成16年4月以降に施行されたものだという。「祖母が孫を産む」ケースは今回報道された1例だけだ。

 かれらの言い分はいつも同じだ。「困っている人を前に放っておけなかった。いい悪い、をみんなで議論して、それがいいことなら世の中に定着して欲しい」ところが実際は、今回も含めて妊娠あるいは出産が終わってから、公表する、決して実行前の段階で議論はしないのが彼らの手法だ。

 「代理懐胎は成熟した技術を組み合わせた治療で先端医療ではない。医学的には通常の不妊治療による妊娠・出産と大きな差はない」

 日本産科婦人科学会・倫理委員会委員長の吉村泰典氏(慶応大学教授)は指摘する。

 「ただ今回のように生殖年齢をはるかに過ぎた女性の妊娠・出産は、海外でも報告例が増大するリスクはいまだ不明だ。最近の日本における症例報告をみても、卵子提供などで妊娠した五十代の女性の出産に伴う大量出血例や、胎盤の付着異常などの知見が明らかになりつつある」

 「祖母が孫を産んだ」事実は、N医師も彼を取り巻くメディアも掴んでいたはずだ。この事実の公表が社会にもたらすインパクトは大きい。問題は公表のタイミングだ。

 N医師は平成10年8月に「卵子提供」の実施の公表により、日産婦学会臨時評議員会(当時)の決定により除名処分となったが、平成12年3月に「除名処分の無効確認・地位確認訴訟」を東京地裁に提起、平成15年2月に学会は裁判長の強い要望もあって、「和解条項」を条件に裁判上の和解を了承。平成16年2月にN医師は日産婦学会会員に復帰している。今回の報道は司法が決定したこの「和解条項」にも大きく逸脱している。さらに、平成11年の厚生労働省母子保健課長通知にも真っ向から反している。

 公表のタイミングを誤れば、自身が推し進めてきた「日本におけるリプロダクティブ・ライツ(産む自由・産まない自由)」の動きにも強くブレーキがかかることになる。タレント・カップルがアメリカ・ネバダ州のホスト・マザーによる代理出産によって出生した双子の出生届けを東京高裁が受理命令を下した今こそ、公表にはもってこいのタイミングと判断したのだろう。

 もう一歩踏み込んで指摘すれば「困っているひとを放っておかなかった。倫理は社会のニーズについていけない」という理屈から、学会や国際ルールの規制から逸脱して自身の信ずる治療行為に邁進する傾向は、「プロフェッショナル・フリーダム」あるいは「医師の裁量権」を拡大解釈して盲信するベテラン医師に共通して見られる定型である。

 「治療に情熱をそそぎ、手続きを軽視する」という視座からみれば、祖母に娘夫婦の受精卵を胚移植したN医師も、現在、病気腎の移植でバッシングを受けている愛媛・宇和島のベテラン外科医も、その行動原理はまったく同じなのである。

 ところが実際は、一方がメディアでヒーロー視され、他方がバッシングされている。この現状こそ、「生命倫理」の「ある領域」に限って、メディアが意図的に世論をスピンしたがっている証左といえよう。

<連載2>に続く >>
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