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(掲載日 2007.02.13) |
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50代の主婦が国立の群馬大学医学部を受験し、筆記試験では合格点を上回ったのに面接を経て最終的に不合格になったとして、裁判に訴えた事件があった(注1)。当方は思うところあって、この主婦に限りなく強い共感を覚える。そこで、何とかこの主婦が希望をかなえることができるような理屈を考えてみたい。
ただし、50代からの医師養成の難しさという医学的な点は、会員の皆さんが専門家であるので、詳しくはそれぞれのご意見を待ちたい。ここでは、一般論として、50代からでも何らかの受験をして何事かを成し遂げるための条件や制度のあり方について記す。
この問題についてはいろいろな考え方ができそうである。調べたところ、米国の法哲学者R・ドゥウォーキンが著書『権利論』(邦訳・木鐸社)(注2)で、「逆差別」という問題を論じていることが手がかりになることがわかった。法律学の世界では有名な話のようである。デフニス事件という裁判が題材である。
米国の法曹養成機関である大学のロースクール入学試験で、ある大学が黒人受験生に一定の優遇をしていた(一般に言うアファマーティブ・アクション)。そして、白人のデフニスという青年が黒人受験生より高い点を取ったのに、黒人優遇枠があるせいで、不合格となった。これは逆差別だというのである。
ドゥウォーキン先生は、この著書で、平等といっても選挙権の1人1票や、小学校などの初等教育などは完全平等であるべきだとしながらも、法学教育は万民に平等である必要はないとする。そして、ある政策が一定の人々を平等でない取り扱いをしても、その政策について、「社会を総体として向上させるが故に正当化される」とした。
その「向上」には二つの考え方があって、社会の福祉(利益といってよさそうである)を向上させるのが「功利主義」であり、社会の正義にかなうのを「理想的」な考え方である(理想主義といっていい)。これを群馬大志望の主婦について、当てはめてみよう。
まず大学のあり方を考えると、大学とは社会に有為な人材を送り出すためにあるという「功利主義」の発想を採る。医学は実学だから功利主義的発想を許容しておく。そして、この場合、入学試験のやり方も社会に役立つ人材を探すため、面接を含めた総合評価をするという手法を使う。
とすると、50代の主婦は合格してもよさそうなのである。人生経験を社会に役立てることができる。試験成績も優れている。総合評価でなく筆記試験だけの完全自由競争方法であっても合格できる。また、50代から志そうというのだから人物評価が高い可能性がある。しかし、お気づきだろう、この同じ基準で逆の判定もできる。
50代から医師として養成しても、高齢となるので活動できる年数は限られるだろうし、体力ももつまい。そんな人物のために国立大学として巨額の税金を投入するのは社会にマイナスだ、と。若い世代に投資した方が効率的だし、人物評価についても、中年よりも若い青年たちの方が新鮮な発想をするのでよい、などといくらでも理屈はつけれらる。
180度反対の結論が出るのは、人物評価もさることながら、社会に役立つとは何かということが計量するのが難しいからである。「中年の新人医師であっても社会に貢献できる」「いやできない」という論争になるだろう。実はドゥウォーキン先生も社会に役立つことの「測定」が困難だと言っている。そこで新たな基準が必要となる。
そこで、ドゥウォーキン先生は「選好」という概念を持ち出す。これは社会がある政策を好ましいと思うかどうかという考え方のようである。社会が総体としてある政策を好ましいと思うなら、その政策が一定の人々を平等でない取り扱いをしても許される。
では何が好ましいのか。詳述すると煩雑になるので省略するけれど、判断の基準としての「選好」の中でも、排除されるべきものがあるという。それは、「一定の倫理観の正しさを独断的に前提し、この倫理観を受容しない人々に敵対することから生ずる選好、あるいは一定の性質(たとえば肌の色とか人種など)をもつ人々を嫌悪することから生ずる選好」(訳者である小林公教授の「あとがき」よりの引用)である。
こうした選好は多くの場合、退けられるべきだとする。したがって何らかの試験で人種への嫌悪を基準とする基準は許されず、先の白人青年の逆差別という主張は否定される。群馬大学を受験した50代の主婦の場合、どうなるだろうか。もし、大学側に「一定の性質を嫌悪する」ような選好があるならば、それは許されない。
報道によれば大学側は年齢差別はしていないという。あくまで当方が経験則に基づいて、この主婦を拒否するときの感情を想像すれば、一般論として50代の扱いは、大変だと考えるかもしれない。若者と違って人格が出来上がっていて、教育するのが面倒だ、と。医師国家試験も合格する保証がないし、もし彼女が挫折したら教授会が責任を取るのか、医学部長が責任を取るのか、マスコミから批判される、等々。
もちろん、これらは大学の主張ではないことは繰り返し強調する。あくまで当方が考えた想定でしかない。ただ、そうしたネガティブな要素はいくらでも挙げられるということである。しかし、それを排除すべきであるというのが当方の主張であり、理屈である。
といっても、世の中や人は、理屈だけでなかなか動かないのが現実である。長く続いた制度や慣例を変えられない。とすれば、論より証拠で、理屈に加えて、実績を見せつけることが人を説得し動かすことにつながる。
医学部志望の50代の主婦には引き続き挑戦してほしいと思う。と同時に、一般の中高年が実績を示すべきなのである。医師志望ならば、まずは30代、40代からも含めて医師を目指す人が出てくればいい。さらに、ほかの様々な分野で、50代のいわば脱サラ組が活躍し、50代からでも知力、体力はみなぎっているという実績を示して、医師志望の主婦を側面支援することである。
意欲があって、やる能力があるなら年齢で退けるべきではない。そういう当たり前の結論である。ただ、これだけだと具体例に欠けるので、当方の次回コラムで続編として、50代から何事か成した実例を取り上げたいと思う。
(注1) |
インターネット上を検索すると、06年10月、前橋地裁で主婦が敗訴したという記事がいくつも出てくるので、それを参照されたい。 |
(注2) |
『権利論』は、03年増補版。訳者は、木下毅、小林公、野坂泰司の各教授。『50代からの医師志望を考える』 |
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