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コラム
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「50代からの医師志望を考える(中)」 浜田 秀夫
(掲載日 2007.04.10)

 NHK総合テレビで07年3月11日(日)夜、NHKアーカイブスという保存映像を利用した番組で、「誕生・64歳新人医師」というドキュメンタリーが放送された。これは、葛城四郎さんという人が50代から医師をめざし、難関の京大医学部に入り、64歳で医師になった姿を再放送(最初の放送は1984年)したのである。

 本コラムのテーマにぴったりである。テレビを見てワシはこう思った、というのでは床屋政談のようで当方はいやなのであるけれど、「50代からの医師」の貴重な実例である。こんな人がいたのだということを正直、知って驚いた。50代の主婦が群馬大学医学部に拒否され、一方で、この葛城さんという方が京大医学部に迎え入れられたのはなぜか。その必要十分条件を考える。

 もっとも留保がある。実は、当方はテレビ放送の当日、事情があってほんの一瞬の場面しか番組を見ていない。葛城さんが年下の先輩医師の指導を受けて研修に臨むという場面を見ただけである(注1)。そこで、この件を書くにあたって、葛城さんの著書『限りなき階段 人生を二度生きる』(1993年、洋泉社)を探し出し、それも手がかりに加える。

 著書の経歴によれば、葛城さんという人は1919年生まれ。大阪の旧制今宮中学から旧制大阪高校を経て、大阪帝国大学工学部を卒業し、戦後は高校(もちろん新制高校の)教師をしていた。50代で医師を目指し、京都大学医学部を受験・合格して、1979年、60歳で卒業した。

 NHKのホームページに番組の一部内容の紹介がある。それによると、葛城さんについて、「医師国家試験に8回チャレンジし当時、最高齢の63歳で合格、念願の医師になる」とある。そして著書にある経歴欄によると、90年代以降、鹿児島県・奄美群島などの病院に勤務したり、船医となったりして活動したとのことである。

 以上を見てわかるのは、当たり前ながら、京大医学部に合格できるだけの高い学力を、50代であっても、身につけていたことである(これは大変なことである)。これは、それがなければ物事が成り立たないという「必要条件」である。問題は、これだけでは「十分」でないことだ。前回コラムからおわかりのように、学力試験で合格点を取っても、入学させてくれるかどうかは、別問題である。

 この葛城さん、この問題を確実に乗り越えた。前掲著書によると、葛城さんは、時の京大医学部長・岡本道雄教授に手紙を書いて「50歳を越えている者でございますが、もし試験ができましたら入学をご許可して頂けるでしょうか」と尋ねたのだそうだ。これに対し、岡本学部長から「京大はそのような差別は一切いたしません。安心して試験を受けてください」との返事があった、と葛城さんは書いている(注2)

 著書は断片的な記事を集めたような内容であって、これ以上の詳しい経緯は書かれていない。よって、以下は当方の分析になる。それは最大の勝因が岡本学部長への手紙にあると思うのである。著書の記述が事実ならば(同じく前掲(注2)を参照)、のちの京大総長でもある岡本学部長から「差別しない」という確約を葛城さんは取りつけたわけである。「平等」のタテマエを実質面でも保障させることに成功した。これが合格のための十分条件となった。

 岡本学部長の決断は、ほかの教授陣や関係する京大事務局、文部・厚生官僚らの負担を軽くしただろう。「おじさん学生」の育成について、だれが責任を取るんだという小心な声が出たとしても、岡本総長が責任を取ると明言したも同然だからだ。整理し直せば、葛城さん自身の意欲・学力と、岡本学部長(総長)という権威と権限を持った責任者の支持。この二つが合体して合格の必要十分条件となったのである。

 なぜ岡本学部長の支持が可能だったのか。葛城さんの著書の記述を見ると旧制高校の思い出話が多いことに気づく。そこで、当方が推測するひとつは、当時の岡本学部長ら京大教授陣には旧制三高、京都帝国大学の出身者が多く残っていただろうから、教授からすれば葛城さんも自分たちと同じく「国家有為」の人材を養成するための旧制高校、帝大コースを歩んだとして、その人物像について見当がつく。自分たちと同質だとして信頼感を抱いていたのではないかということだ。

 また、葛城さんが医師を目指した1970年代の医学教育にも余裕があったというべきか。さらに「自由」の気風で知られる京大自身の余裕だったのか。岡本学部長・総長が大物だったからでもあろう。葛城さんが何度も医師国家試験に落ちたとき、岡本学部長・総長はおそらく、じっと我慢の子、だったのだろう。葛城さんは本人に意欲や能力があるのはもちろん、彼を支えてくれる他人や状況に恵まれた。それが十分条件ともいえる。

 では、今回、群馬大学医学部から拒否された女性の場合、どうすればよかったか。学力という必要条件は満たしているのだろう。問題は十分条件だ。京大における岡本学部長のような存在を、この女性がいかに見つけるか。群馬大教授陣が世代や経歴などでこの女性に親近感を抱くことはまずありえない。そういう教授陣に手紙を書いたとしても意味はない。手紙という方法自体、現在の感覚で言えば不透明さもぬぐえない。

 実は、それよりも、もはや特定の人物に頼るべきではないのだろう。葛城さんが手紙を出した岡本学部長・総長は、たまたま「名奉行」だったので「大岡裁き」によって救われた。しかし、これでは大学の学長や学部長がだれであるか、その人物の資質や恣意に左右される。しかも、もはや旧制高校のような文化的背景はないのである。今後は、明確な基準やルールに従って、葛城さんやこの女性を救うべきなのである。

 今後、いろいろな大学医学部が中高年を受け入れるためには、熟年医師がいかに社会に有用かを示すことが何より重要だろう。それが説得力をもってはじめて制度面でも支援を可能とするルールづくりができると思う。そのとき、今回の葛城さんの例は実績になる。それは葛城さんが離島や船などで勤務したことが参考となるのである。次回の本コラム(下)は、その問題も含め、総まとめとしたい。

(注1)
NHKに同番組の再々放送があるのか、電話で問い合わせたところ、いまのところないとのこと。一視聴者として再々放送を要望しておいた。
(注2)
同書116ページに記述がある。なお、岡本学部長が実際にそう返事したのかどうかの裏づけは、その手紙を実際に確認しないかがぎりで完全ではない。しかし、葛城さんが入学・卒業できたという事実をもって、京大が差別をしなかったことは言える。よって、本記事の記述も、岡本学部長が差別しないと判断したのが事実だとすれば、という前提に立つ。もっとも、今後とも機会があれば岡本学部長の判断について調べていきたい。
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