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コラム
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「50代からの医師志望を考える(下)」 浜田 秀夫
(掲載日 2007.06.05)

 今回でまとめにしたい。そもそも50代から医師を志望しようという人は、それまでの人生で何事か一定程度の成功をおさめた人が第二の人生を目指すのであり、それも経済的にゆとりがあるからできることだろう。

 要するに欲張りなのである。そんな欲張りな人間を社会が認めるには、(1)優れた知力(2)若い人がいやがる仕事を進んで引き受ける(医師の場合は、僻地での勤務)、という2条件が求められる。これが当方の結論である。

 (1)の知力は、これまでも言及してきた通り、何はともあれ入学試験の筆記試験で好成績をあげることである。

 50歳をすぎて京大医学部に入った葛城四郎さんの件で、「京大は年齢差別はしない」と言ったとされる岡本道雄氏(京大総長、医学部長)の著書を調べたところ、岡本氏は入学試験とは「一発勝負」であり、それでいいという考え方の持ち主のようである。だから、点数を取れば50代の受験生・葛城さんでも合格なのである(注1)

 当の岡本氏自身、旧制三高(注2)から京大医学部に入るときの試験を振り返っている。人生とは、いろいろな局面で「一発勝負」をしているのであって、それに向けて努力するのが人間だという。

 当方(本記事筆者)が見るところ、京大医学部の場合、いつの時代でも、大学入試の頂点の一つであり、その点数を獲得できる者は頂点に達した者同士の仲間になるのであり、それが50代の葛城さんのような受験生であっても差別するわけにいかないのだろう。

 また、岡本氏は京大総長として、公安当局に追われていた助手の公務員身分をめぐる「滝田修問題」の処理を行った責任者でもある。どんな組織においても、難しい問題に逃げないで取り組んだ人物は信頼を得る。

 岡本氏の学内での重みは相当なものがあったと想像できる。その総長が、50代から医師志望学生を受け入れる以上、学内や文部省は表立って強く反対をできなかっただろうことは改めて言える。

 次に(2)の条件である。医学部に入学できて、医師国家試験も合格したとしよう。では、どんな医師になるか、である。

 京大の葛城さんんの場合、鹿児島県・奄美群島での離島勤務、そして船医をしている。葛城さんが1990年ごろ勤務した一つに徳洲会・徳之島病院がある。現在の同病院のホームページを見ると、医師募集のページがあって、これを読むと苦笑するというか、考えさせる。(参考:徳洲会・徳之島病院HP >>)

 僻地での医療という理想でも、都会での大病院で定年を迎えた後でも、ダイビングなど趣味のある医師でも、とにかく来てほしいという趣旨が書かれている。当方は、たまたま90年当時、徳之島を取材したことがあり(注3)、同病院も外から見ている。

 徳之島自体は、いかにも南の楽園という趣がある半面、都会育ちの若者には刺激の乏しいところではあり、医師確保に苦労するといわれても驚かない。

 過疎地での医師不足の理由について、専門家である会員の皆さんは詳しいだろう。しかし、当方が社会人一般の経験則から言わせてもらえば、人間とは、できることなら、より大きな土俵や舞台で経験を積み活躍したいと考える。臨床研修、そして実際の勤務も都会の大きな病院・大学でしたいというのは人情である。特に若者は。

 一方、50代から医師になる人は、冒頭述べたように欲張りな人生を送るのだから、医師として都会で働き、「おいしい」思いをするのは許されない。こうした一種の嫉妬が50代からの医師志望に向けられるのを気づくべきであると思う。とすれば僻地での勤務を進んで希望するのである。若者がいやがる僻地勤務をしてみせて、社会の理解を得る。こうした僻地勤務を義務化してもよいだろう(注4)

 さて、50代からの第二の人生で、(1)優れた知力(2)人がいやがる仕事を引き受ける、という2条件を満たした人物が歴史上、存在する。あまりにも有名な伊能忠敬である。当方は、昨年、千葉・佐原(現在、合併で香取市)にある伊能忠敬記念館(注5)を訪ねた。そこでわかったことは、伊能忠敬という人は大変な能力の持ち主であったことだ。

 彼はちょうど50歳のとき19歳年下の天文学者・高橋至時に弟子入りした。記念館に後日、弟子入りに当たって入学試験のようなことはあったのかと尋ねたところ、「(そうした)記録はない」とのことだった。

 しかし、伊能は弟子入り時点で当時の第一級の数学や天文学のレベルに達していたようである。彼の蔵書類を見ると、その膨大な量は古今東西の「知の宝庫」であり、幕末の町民富裕層における文化の蓄積の例だと思った。

 そして、実際の事業である地図測量について、これもまた人がやりたがらない仕事だと思った。全国を歩いてコツコツと測量するのであるから。幕府は当初、測量に金は出しておらず、伊能忠敬が自腹を切っているとのことである。「老人」である伊能忠敬に幕府が大事業をやらせたのは、能力、意欲、財力があって、人がやりたがらない仕事をやるからなのだろう。

 50代からの医師と、伊能の地図測量の共通点は何か。人の命にかかわる医師の仕事につく以上、優れた知力は50代であっても絶対条件である。伊能の事業も知力が必要だった。つまり「本物」であるあかしである。

 では、人のいやがる仕事を引き受けることの意味は何か。それは「本気」であるあかしである。おもしろおかしく、金儲けをしようというのでなく、困った人を助ける、社会に役立ちたいという志の表れである。これらの条件を満たすならば50代からでも医師になれるようにすべきである。実質的な差別を撤廃すべきである。

 「本物」と「本気」の制度化を考えるべきであろう。

(注1) 岡本道雄『大学の内と外』(昭和61年、星文出版)のうち、「大学受験生のために」の記述など。また、『人生はわからない』(平成16年、法研)の中で、「医学教育に欠けているもの」などの文章で、医師養成制度に意見を述べている。
(注2) 前回「50代からの医師志望を考える(中)で、岡本氏の発想に旧制高校の教養があるのではないかと当方は書いた。上記「注」にある著書などから、岡本氏自身が旧制三高出身であり、やはり旧制高校という視点は正しいと思われる。
(注3) かつて衆院選奄美群島区で保岡興治氏と徳田虎雄氏が激突し、それに伴って徳之島・伊仙町長選も両派に分かれて激しい戦いを展開していた。それを取材に行ったのである。もちろん、当時、葛城さんの存在は知らなかった。
(注4) もっとも、当の僻地の住民からすれば、そんな中高年の新米医師ばかり派遣されてはかなわないというかもしれない。しかし、若い医師が来たがっているわけではないことははっきりしている。中高年新米医師と都市部の病院との「病診連携」は別途考えればよいのではないかと考える。
(注5) 伊能忠敬記念館ホームページ

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