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(掲載日 2007.11.13) |
先日、近所の社会保険事務所に出向き、自分の年金記録を確認してきた。2年ぶりぐらいである。
時々、点検しないといつ記録が消されるかわからないので、自分なりに彼ら社会保険庁を定期的に監視しているという意味がある。
その記録は大丈夫のようであった。私の場合、20年あまりの厚生年金と、その後、現在まで数年分の国民年金に加入し、保険料を納付している。
ここまでで何かに気付いた人がおられたら、制度に詳しい方だ。厚生年金が受給資格の原則である25年間加入を満たしていないのである。
それじゃ年金をもらえない?
でも、ご安心を(別に読者は小生の心配はしないか)。
実は生年月日による特例があって受給資格を得ている。
会社を辞めたのは、この勤続年数になって受給資格を満たすのを待ってのことだった。これまでだれにも説明したことはなかった。 今回、初めて明かす(といって、たいそうなものでない)。
いちおう社会保障問題の専門家を自称し、その分野の著述をしていたのだから、それぐらいは知っていなければならない。今回、社会保険事務所においても再確認してきた。
実際に会社を辞めてから最初にしたことは、国民年金加入と保険料納付であった。これもまた、専門家として守るべきことだった。
当時、ほどなくして政治家の「未納三兄弟」などが問題になった。当方は、ホッとした気分だった。
その後も本欄で何度も社会保険庁問題を書き、労組(国費評議会)に取材もした。言論活動を行うためにも当然の義務を果たしておかねばならないのだ。
私の年金記録の数字の背後に、ざっと書いただけで、こういう思いが詰まっている。一昨年の本欄の記事『トホホ社会保険』で、「社会保険とは人生を映す鏡」だと書いた。その通りなのである。
社会保険庁や市町村の職員が年金保険料を横領した事件がいくつも報じられている。以上に書いたように、横領するということは、その加入者の人生を踏みにじる行為なのである。
記録が消されたというのは人生を否定されたような思いをするのである。わかっているだろうか。横領した職員の人は。もっとも本欄を読んでいないだろうけど。
もう一点、指摘したい。年金の半分を企業が支えていることが忘れられがちである。厚生年金の場合、保険料をサラリーマン本人と事業主が半額ずつ負担するからだ。
そして、中身は省くけれど厚生年金は詰まるところ国民年金なども支えている。年金保険料の横領は、各企業の保険料負担の義務意識を薄れさせてしまう。
企業の社会保険料負担には、ずっと不満がくすぶっていた。不況や国際競争などを考えると重いというのである。
このほど、経済財政諮問会議で基礎年金の財源をすべて国庫負担でまかなう税方式も議論の俎上に乗せることとしたという。
経団連も税方式を提案するとのことだ。この背景にあるのが、この負担感の重さへの不満である。
もっとも、経営者の中には、日本の年金制度が戦前から企業が半分負担したことを知らなかった人もいる。
以前、政府の規制改革会議の主要メンバーだった人と話をする機会があって、彼が制度の戦前からの歴史を知らなかったのをこちらが知り驚いた。
深刻なのは、制度を知り尽くしているはずの社会保険庁や市町村職員が、こうした企業の負担について、見ぬふりをして簡単に横領してしまうことである。
これでは企業としては何のため義務として払うのか、馬鹿らしくなる。企業が国家を支えるのを忌避する。
人々と企業が互いに支えあって社会を成り立たせているのに、横領は個々の人々の人生を踏みにじり、企業の義務感をなくしてしまう。二重に社会連帯を崩壊させる。
もちろん、異論もあろう。「もう企業に社会保険料負担をさせるべきでない」「税方式でいこう」という主張はありうる。それならそれで、そういう制度設計をして、そのような合意を達成する必要がある。
一部の職員による横領という次元で終わらないのだと言いたい。年金もまた「国のかたち」である。
言い古されていたとしても、以上のように重い問題なのである。
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