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コラム
今週のテーマ
(掲載日 2008.12.09)

■はじめに

 前回は、県立大野病院事件判決の業務上過失致死罪部分について、その意義と問題点を指摘した。

 この判決は、業務上過失致死罪のほかにも、異状死体の届出義務を規定した医師法21条違反についても無罪とした。

 この無罪判決の評価と医療安全調査委員会について触れたい。

■医師法21条の「異状」の定義

 医師法21条は「医師は、死体又は妊娠4月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。」と規定する。

 この「異状」の意味について、本判決は「法医学的にみて、普通と異なる状態で死亡していると認められる状態であることを意味すると解されるから、診療中の患者が、診療を受けている当該疾病によって死亡したような場合は、そもそも同条にいう異状の要件を欠くというべきである。」とした。

 この定義だけを見ると、医療機関で診療を行っている患者については、診療中の疾病で死亡したとしても届出義務は課されないことになり、その届出の範囲がかなり限定されたとともに、大変シンプルなルール設定がなされたと言えよう。

 特に、本件のように手術前には判明していなかった疾病で、手術中に判明した疾病について、「診療を受けている当該疾病」に当たるという前提のもと「異状」を判断するとなると、病院における死亡が「異状」に当たるケースは極めて限定されることになる。

 しかし、本判決のこの定義を本件に当てはめた部分を見ると、少し様相が変わってくる。

 本判決は「本件患者の死亡という結果は、癒着胎盤という疾病を原因とする、過失なき診療行為をもってしても避けられなかった結果といわざるを得ないから、本件が、医師法21条にいう異状がある場合に該当するということはできない。」として、K医師が届出を行わなかった行為を医師法21条違反ではないと判断した。

 ここで本判決は前述の「異状」の定義にはなかった「過失なき診療行為をもってしても避けられなかった」という要件を突然持ち出しているのである。

 すなわち、本判決のこの当てはめ部分を見ると、「異状」でないと言えるためには、「診療中の患者が、診療を受けている当該疾病によって死亡したような場合」という要件に加えて「過失なき診療行為」という要件が必要であるかのように読めるのである。

 仮に「過失なき診療行為」が要求されるとすると、現場の医師は、死亡から24時間以内に自らの行為に過失があったか否かを判断しなければならないことになる。

 刑事的な過失の有無をこのような短時間に判断することは非常に困難である。この判決は、医師法21条の適用範囲を明確に定めたものとは言い難い。

 したがって、この判決によって医師法21条を巡る医療現場の混乱が収束するというのは、過剰な期待と言えそうだ。

■憲法判断の回避

 本件では、弁護側は、医師法21条が黙秘権を定めた憲法38条に違反する上、「異状」という文言のみではどのような場合に届出義務が生ずるのか現場の医師は判断できないので、刑罰法規としての明確性を欠くため、罪刑法定主義を定めた憲法31条にも違反するとして、憲法判断も求めていた。

 しかし、本判決は、前述のような定義を行い、本件は「異状」には該当しないとして、憲法判断を行うことなく無罪判決を下した。

 しかし、そもそも文言自体が明確性を欠くという主張がある中で、その明確性の有無について何ら言及しないで、アプリオリに明確性があることを前提として「異状」の定義をして見せても、結果としてその定義の背景となる立法事実(立法趣旨)が明確でないため、やはり不明確さが解消されることはないのではなかろうか。

 裁判所には、少なくとも明確性の有無について何らかの判断を示してほしかった。

 明確な立法事実を欠くが故に今回の判決の異状死の定義も曖昧なものにならざるを得なかった。このことからも医師法21条が明確性を欠く規定であることは明確ではないだろうか。

■医療安全調査委員会

 本件を一つの契機として、医療事故に関しては司法ではなく医師などから構成される第三者機関が調査を行うべきであるという意見が湧き起こり、厚生労働省が「医療安全調査委員会設置法案(仮称)大綱案」を平成20年6月に発表するに至った。

 医師の訴追を第一義とするのではなく、医療安全を実現することを第一義として、医療事故の原因を探り再発防止策を講じることは大変意義のあることであろう。

 また、本件においては、前述のように検察官が搬送義務を明確に争点化せず、判決も搬送義務の有無について結論を語らなかった。

 医療安全委員会が設立されれば、そのようなことはなく医療安全につながる全ての論点が検討されることになるのかもしれない。

 しかし、注意しなければならないのは本件の契機もまた事故調査委員会であったという事実である。

 本件では、福島県病院局が設置した事故調査委員会が胎盤の剥離を中止して子宮摘出手術に移行するべきであったという結論を下したことがきっかけとなり、捜査機関は本件を刑事事件として扱うことを決めたことが強く疑われる。

 本件直後の院内検討会では担当医師自身は過失はなかったと報告し、それに異議を唱える者は誰もいなかったのである。

 にもかかわらず、事故調査委員会が設置され担当医師に過失ありという報告がなされた背景には、遺族に賠償して事を穏便に済ませたい、という思惑があったという。

 本来、医療安全のために開催されるべき事故調査委員会が、このような誤った目的のために開催されたことが、不幸な出来事の始まりだったのである。

■医療刑事手続きと医療安全調査委員会

 医療安全調査委員会を巡る議論の中で、医療刑事手続きとの関係が論じられている。

 その議論では、医療安全調査委員会を医療刑事手続きのふるい(篩)のようなものと捉え、医療安全調査委員会で広く医療事故を把握し、その中で悪質なものを刑事事件化するという「医療安全調査委員会前置主義」を唱える論者がいる。

 一方で、医療安全調査を洩れなく行うためには、医療事故は刑事事件化してはならないと唱える論者もいる。

 しかし、これらの論はいずれも極端であり、また、処罰の範囲の議論と捜査の端緒の議論を混同しているきらいもある。

 医療事故であっても、刑事手続きが目的とする社会秩序の維持に抵触するような悪質な医療事故は、刑事手続きの対象として処罰しなければ国民の応報感情を納得させることは不可能である。

 故意や故意に近い重大な過失があり、国民感情からして処罰の対象とせざるを得ない医療事故があることは否定できない。

 そして、そのような医療事故についても医療安全を論ずる必要はあり、医療安全調査委員会の調査対象となり得る。

 だが、その処罰範囲の適正ということと、捜査機関がいかにして犯罪の端緒を得るかということは別の問題である。

 医療安全という目的から、できるだけ多くの医療事故を収集しようという本来的動機を持った医療安全調査委員会を、刑事事件の前審として扱うことは、全ての医療事故を刑事処罰の予備軍とすることを意味する。

 これは本来、正当な行為として是認されるべき医療行為まで刑事処罰の予備軍とすることであり、他の社会領域に比べ、医療行為における処罰の可能性を著しく高く設定することになり、医療行為に過度の萎縮をもたらす。

 他の社会領域と同様に、捜査の端緒は、被害者による申告や捜査機関の活動によって得られるものとすべきであり、医療システム自体に犯罪捜査発見の仕組みが組み込まれているというのは、過度の管理社会をイメージさせる。

 医療安全調査委員会を刑事事件の前審とすることは、医療事故の届出を萎縮させることにつながり、少しでも多くの医療事故を拾い上げようという医療安全調査委員会の目的とは両立し得ない矛盾した制度設計と言える。

 医療刑事手続きと医療安全調査委員会とは、あくまで並立して交わることのない2つの手続であるべきである。

 捜査機関は、独自に捜査の端緒を求めるべきではない。医療安全調査委員会も捜査機関に対して調査結果を報告する義務を負うべきではない。

 事実上、医療安全調査委員会の調査結果が刑事手続きに影響を与えることも考えられうるが、匿名化や刑事訴訟法による証拠提出の例外とすることで、法廷に医療安全調査委員会の調査結果が提出されないような工夫が必要であると考える。

 そして、医療刑事手続きは、判例などの集積を続け、処罰すべき医療行為は何かという探求を続けていくべきである。

 その意味では、県立大野病院事件は1つの判例として功があったのではないか。

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