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コラム
今週のテーマ
(掲載日 2009.02.17)
<舞台> アジアのとある国
<設定> 大きな内戦が終わってから60年がたった。その内戦は民族対立に端を発し、10年にわたった。疲れ果てた国民は難民として周辺国に流れ出し、周辺国の治安悪化が進んだ。対立していた国民は、強い外圧を受けてようやく和解したのだった。もともと勤勉な国民で、交通の要衝にも位置していたため、戦後60年でその国は急速な発展を遂げた。その一方で、国民の間に新たな火種ができている。それは「年金問題」だった。
<主な登場人物>
 ○東都大学准教授・・・西山勘助(にしやま・かんすけ)
 ○保険勤労省年金局企画課課長補佐・・・斎藤誠太郎(さいとう・せいたろう)
 ○夕刊紙「毎夕新聞」の記者・・・島谷涼風(しまたに・すずか)
 ○保勤省年金局数理調査課・・・三森数馬(みつもり・かずま)
 ○年金問題に執念を燃やす政治家・・・西郷竜一郎(さいごう・りゅういちろう)
 ○与党 民自党党首・・・川上一太(かわかみ・いった)
※ 日本人に読まれることを想定しているため、日本的な名前にしているが、他意はない。
<< 最終話「年金不況」 

 「思えば、事務次官と課長補佐が逮捕されて5年の月日が流れました。この間、さまざまな議論が行われました。

 最初は、ともすれば党利党略ではないかと思われる主張も多かったのですが、国民の老後を人質にする行為は許されるものではありませんでした。

 いま、ここに、我が国の新しい年金制度が始まります。確かに5年は長かった。しかし、ここにたどりつくためには、最短だったとも言えます。

 新しい年金制度は、国民が超党派で作り上げた、真に国民のための制度と言えます。きょうは、この制度の誕生を祝いましょう」

 国会で報告したのは、野党の西郷竜一郎下院議員だった。

 年金制度の改革論議は、もめにもめた。次々にスキャンダルが飛び出して、一時は、まさに政争と化した。

 一時は、政治家も国民も、あまりの激しさに嫌気がさして潮が引いたこともあったが、そんな時にも改革の必要性を訴え続けたのが西郷だった。

 そんな混乱の中から、新しい年金制度の芽が出てきた。  その基本は、官民競争年金と、最低保障年金の税方式だった。

 国民は、所得に応じて保険料を払う。年金額は、原則として支払い保険料に応じて決まる。保険料の徴収と年金給付は国が責任を持って行うが、国民は民間保険を選ぶこともできる。民間保険を選んでも、税制などで優遇があり、官民が制度運営の効率を争う仕組みが採用された。

 普通に運用すれば、宣伝をしないために経費が安く、国の信用力をバックにしている国の制度が有利になるはずだ。それでも民間保険が有利だと、多くの国民が判断するのであれば、国が制度を運営する必要はない。

 民間にとって変わられる可能性があることが、国のだらしない制度運営を許さない仕組みに変えたのだ。もちろん、公的年金制度に参入する企業は、国による厳格な監査を受ける。

 保険料を払える人はいい。失業などで保険料を払う余裕がなかった人は、老後に十分な年金が確保できないことになりかねない。そこで、最低保障年金の制度が導入された。

 これまでの制度は、保険料を払えない期間が長かった人には、極端な場合、1円も年金が支払われなかった。保険料を払ったことがあっても、合計25年以上払わないと1円も支払われないのだから、ボッタクリと言われても仕方がない。

 しかし、そういう人たちは、税金からの生活保護が救済していた。年金財政は助かるが、その運営母体である国家レベルで考えれば、保険料を払わずに税金を受け取るだけの人をたくさん作ってしまう結果になっていた。

 「省あって国なし」というより、年金制度さえしっかりしていればあとはどうなってもよいという、反国家的な役人を大量に抱えている国だったのだ。

 その一方で、基本年金の支給に税金を半分つぎ込み、収入が多くて保険料を長く払い続けることができた人に、税金を多く渡すという、本来の社会保障制度とは反対といってもよい政策を採り続けてきた。

 これでは、税金がいくらあっても足りなくなるのは当然で、金がないから国民の大切な医療費に金を回すことができないという論理にもつながり、将来不安を増幅させて経済を破綻の淵に追い込んでもいた。

 この基本年金を廃止して、官民競争年金からこぼれ落ちた人たちを救済するのが最低保障年金だ。最低の年金額を決め、そこに満たない人について、足りない分だけの年金を税金から補填する。

 これによって、生活保護と金持ち優遇の基本年金に使っていた税金を大きく減らすことができる。その一部を医療費に回すことで、年金不安に加えて老後の医療不安が減り、国民は安心して消費を増やすことができる。

 結論を聞けば、異論の余地が少ない制度だが、西郷が提案した5年前には猛反発が起きた。

 やれ、民間保険会社の回し者だとか、老人の年金権を剥奪する泥棒政治家だとか、金持ちである医師の提灯持ちだとか、猛烈な批判が集まった。おかげで、西郷はその翌年の選挙で落選の憂き目を見た。

 それでも、西郷は主張を変えなかった。1人、1人に語りかけて仲間を増やしていった。その間にも、経済の悪化は目に見えて進んだ。

 その中で、国民の年金保険料を運用すると称して、天下り団体に金を回し続けていた保勤省の役人どもの生活の安定ぶりは際だつようになる。こんな過程を経て、国民は西郷の主張の正しさを少しずつだが、理解していった。

 落選から3年、西郷は下院でトップ当選した。その選挙結果を報じるテレビ局のインタビューで、西郷は淡々と話した。

 「国民のみなさん、きょうはありがとうございます。でも、私は、きょうは喜びません。言うまでもありませんが、下院議員になるのが私の目標ではないからです。

 国民のみなさんのために、年金制度が振り回しているこの国の社会保障制度を根本的に変えることが目標です。ただ、その目標の達成が近づいているという実感もあります。あと、一押しです。みなさん、ご支援をお願いいたします」

 その後は、時間がかからなかった。与党の民自党が西郷の案を丸飲みしたためだ。トップ当選の勢いに圧されたためでもあるが、後押ししたのは国民の合意だった。

 国会での報告を終えて議場の外に出た西郷を報道陣が囲む。西郷はテレビカメラに向かって深々と頭を下げた。

 「国民のみなさま、ありがとうございます。ようやく、長年の目標を達成することができました。私は、きょうを持ちまして、下院を去ります。長い間のご支援に感謝いたします」

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