米国で医療損害賠償が社会問題となったのは今から30年以上も前のことである。医療事故が起きた場合にいかに医療損害賠償裁判で負けないようにするかという防衛的医療+裁判テクニックが最優先される時代もあった。しかし近年は医療現場で起きる事故そのものを減らすことが注目され、そのための教育プログラムが続々と開発されている。
この動向を反映し、米国の医療安全におけるここ数年のキーワードは「シミュレーション」と「チームワークトレーニング」である。シミュレーショントレーニングというと、手術の手技などをトレーニングするものであるが、チームワークトレーニングは航空業界で行われているCrew Resource Managementを応用したもので、いわばミニ病棟といった施設を用いながら、危機管理やコミュニケーション能力をトレーニングしようとする統合的なプログラムである。
今年に入りチームワークトレーニングを可能にするシミュレーションセンターの開設が相次いでいる。そのチームワークトレーニングの先駆けともいえるのがボストンにあるCenter for Medical Simulationである。このセンターはハーバード大学の機関であるが、広くボストン近郊の病院に勤めるスタッフに対してトレーニングを行っている。
* * *
そのチームワークトレーニングは、いつもと変わらない朝のブリーフィングから始まる。電話が鳴り、手馴れた手術をこなしにチームで手術室へ向かう。手術も容易なもので手技的には問題はない。トラブルの起きる確率はわずかだ。しかしトレーニングシナリオではほんの些細なことが大きな事故につながるようにできている。チームは騒然となる。いったいどうしたというのだ。自分は状況をきちんと把握していたつもりなのにトラブルが起きてしまう。なにが悪いのだ?どうしたらよいのか?状況の把握に努めながらも、訴訟やトラブルに巻き込まれている自分の姿が脳裏を掠める。
トレーニング後にはブリーフィングがある。ファシリテーター、チームメンバーとともに、事故がおきたときには何をすべきだったか、といった技術論だけでなく、何を感じたか、どうしたかったか、どうあるべきか、互いに何をしてほしかったか、さらには事故を防ぐためには何をしたらよかったのかなどの議論を行う。
チームトレーニングで扱うのは人間ではなくあくまでマネキンであるが、本番になると本当に人間が目の前にいるように感じるのである。そして事故が必ずおきるトレーニングであると思って対応していても、トラブルに対して対応できないことはショックであった。(もちろんシナリオの出来がとても良いのだが)その後のブリーフィングでは、地震にたとえると「地震が起きたら机の下へ」といった一対一の安全ではなく、地震が起きてもけがをしにくい家にするためにはどうしたらよいかというシステム的な医療安全の考え方、その環境を作るための障壁とその乗り越え方などを議論した。
議論においては、「もっと気合を入れて注意をすべきだ」とか「根性が足りない」などという精神論的なことは一切議論されない。医療現場における事故は誰もが容易に起こす可能性があり、いかにその事故を起こさない環境を作るかということが真剣に議論される。このようなトレーニングの結果、個々の医療従事者が医療安全を考える文化が醸成されるのであろう。終わったときには本当に事故が現実に起きていなくてよかったとつくづく思った。
* * *
もちろん、米国と日本の現状は違う。訴訟をめぐる現状においても、医学教育、医療現場、医療システム、全てが違うといっても過言ではない。トレーニングを行うためには時間も費用もかかり、そのような出費は日本の病院にはできないかもしれない。
しかし、個々の医療従事者の能力や責任を問うだけに終わらず、事故の起こりにくい医療提供システムの構築を考えていくことの必要性は日本でも広く認識されている。問題はそれをどのように現実のものとしていくかであろう。
2005年5月初旬、1996年にボストンで起きた医療事故に対し、日本円換算で26億円相当の医療損害賠償の支払いが命じられた。この事故も些細なことの積み重ねでおきている。事件に巻き込まれた患者さんだけでなく医者もまた被害者である。できる限り事故がおきないよう、些細なことをなくすためにはシステム、環境的な枠組みからの改善が必要かもしれない。
※写真提供:CMS-Center for Medical Simulation, Cambridge MA, USA (http://www.harvardmedsim.org)
|