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山口赤十字病院 医師
村上 嘉一
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本稿では新しい医療制度に対する私なりの思いを述べたいと思う。
(1) 医療者と患者の利害を一致させる
政府は、急性期病院から慢性期病院、そして在宅へという患者の流れを作ろうとしている。そして、それを実現させるために、政府の意向に沿わなければ医療機関が生き残れないように、経済的な強い動機付けを行っている。例えば入院期間が長くなると、病院の収入が極端に減らされるようなしくみになっている。これは医療費抑制のためにはある程度はやむを得ない部分もあると思う。しかし問題は、患者側にはそのような動機付けがなされていない点だ。
その結果、病院側は早く退院させようとするが、患者さんやそのご家族は大きな病院に入院させておいた方が安心であるし、家で面倒を見るのは困難であることなどから、転院や退院を希望されない事が多い。そのためいざ退院となると、「病院から追い出された」と医療者や病院を恨むという事態が増加している。
同様に、現在の制度では初診時を除くと、通常は診療所にかかるより病院にかかるほうが患者さんの自己負担額は安い。その為風邪のような病気でも「安くて安心な」病院を受診する患者が多く、病院の医師は忙殺され、重症患者へ十分手が回らなくなっている。
政府は「病院は外来を減らし、入院患者の治療に専念せよ」と言い、病院の外来治療費を引き下げ病院が外来患者を診療所へ紹介するように誘導している。(病院はかかりつけの患者を診療所へ紹介して外来を減らさなければ、経営が成り立たないようなしくみになっていたが、全国の医療機関と患者さん達を振り回した挙句に、この4月に突然廃止された。)しかし、これも「診療所よりも安くて安心」な病院での治療を希望する患者さんから「病院から見捨てられた」と恨まれる結果となった。
これは患者側だけでなく医療者にとっても非常に不幸な事である。「患者中心の医療」を求められている医療機関側が、その「患者様」の希望に沿わないことをしなければ生きていけないような制度は根本的におかしいのではないだろうか?
今後DPC(診断名による医療費の定額払い制)の導入などにより、病院はなるべく治療費を安く抑えないと経営が成り立たなくなることが予想されており、同じ負担ならばより良い医療を受けたい患者側との利害が対立する傾向が一層強くなるのは明らかである。
現在のような医療者側と患者側の利害が対立してしまうような制度の中では、両者の関係が悪化し、患者側は医療不信を増幅させ、医療者側も患者さんの期待する手厚い治療を行ないたくてもできないという矛盾に悩み、仕事に対する誇りや達成感、あるいは本来持っていたやさしい心までをも失って行くと思う。
政府が誘導したい「外来治療はかかりつけ医で、急病で入院が必要な時は急性期病院へ、落ち着いたら慢性期病院を経て在宅治療へ」という患者の流れを作るためには、次のような方法で医療機関だけでなく患者側へも政府が求める方向に沿った動機付けを行い、医療機関と患者側の利害を一致させることが必要だと思う。
1. |
急性期病院への入院が長くなったら病院の収入も減るが、患者の負担も増えるようにする。慢性期病床や老人保健施設などの受け入れ先を充足させ、自己負担額も急性期病院に入院するよりもずっと安くする
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2. |
在宅医療の支援システムを充実させ、介護する家族の負担を軽減すると同時に、在宅で介護を行なう方が施設に入るより金銭的な負担も大幅に少なくなるようにする。 |
3. |
病院の受診料を引き上げ、逆に診療所を受診する際には患者の自己負担割合を減らし、今までより安く受診できるようにする。 |
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そうする事によって、医療者側と患者側が早く良くなって施設に転院したり、家に帰ることができるようにという同じ目標に向けて、「治療同盟を結ぶ戦友」として心を合わせて努力できるのではないかと思う。医療現場の状況が厳しいのであればなおさらのこと、医療者と患者側の利害を一致させるような制度にする事が必要だと思う。政府が、この当り前の方向に動かないのであれば、医療機関と国民を分断し支配しやすくするために、わざと対立構造を作っていると疑われても仕方がない。
一方、私は困難な現状において医師達を奮い立たせ、医療崩壊を防ぐには、国民からの理解こそが最も重要なものの一つだと思っている。
これまでは国民からの感謝の気持ちが医師達を支えてきた。ヒラリー・クリントン米上院議員がかつて日本の病院を視察した際に、日本の医師や看護師の働きぶりをみて「聖職者さながらの自己犠牲」と感嘆したそうである。日本の医療費単価が世界最低水準なのに、WHOから世界一と評価されるほどの成果を上げたのは、医師たちが(決して給料のためだけではなく)、使命感に燃え、患者さんを思って献身的に医療に取り組んできた努力の結果でもあると思う。
しかし、日本の医療水準の高さや現場の窮状が報道されることは、ほとんど無い。一方で、医療事故のニュースは連日報道されるが、背後にある疲弊した医療システムの問題は取り上げられず、事実が確認できていない情報で当事者を断罪するような報道さえあるのだ。さらには、マナーを守らず、他の患者さんや医療者の事情には配慮しようとしない自らの権利ばかりを主張する患者さんが増えたことも、医師達から力を奪い、自分を犠牲にしてまで奉仕しようとする気持ちを失わせている。『患者さんのために立派な医師になろう』と考えている医師が、次第に患者さんのことを思いやれなくなっていくのだ。
医療というのは、『心』が占める範囲が非常に大きい行為だ。どんなにシステムが完全であっても、義務や強制力で医師をしばりつけても、『こんな医療やってられるか』と思っている医師達に治療されては、患者さん達は決して幸せにはなれない。このままでは医師も患者さんもどちらも不幸だ。
(2) 医療の質を上げる方向で競争原理が働くようなシステム
現在のように重症患者を一生懸命治療した医療機関が赤字になるような、理不尽な総額規制制度を見直し、より良い(質の高い、あるいは手厚い)医療を提供し、患者さんから感謝された医療機関が診療報酬でも正当に評価され、金銭的にも報われるようなシステムが実現できないものであろうか?
「良い医療」を評価する方法論が非常に難しいのではあるが、このようにして施設間に医療の質を上げる方向で競争原理が働くようなシステムにすることができれば、自然と医療の質が上がってゆくだろう。ただし不必要な医療行為による医療費の無駄使いを減らす仕組みは必要だろう。
海外では医療機関が治療費を自分で決められるようにしている国がある。現在行われている特定療養費のような制度で医療機関に一定範囲で医療費を決める裁量権を与えれば、医療機関の間に通常の企業と同じように「良い医療を提供する」、「料金を下げて患者を増やす」という正常な方向で競争原理が働くかもしれないと思う。
しかし、ここで強調したいのは、これは国が目指す医療への市場原理の導入とは異なるということだ。市場原理とは、それを成り立たせる健全な市場が存在して初めて有効に機能する。医療などの社会保障分野においては、医療の受け手の多くは金銭的余裕がない高齢者などの社会的弱者である。米国の医療を見ても医療への市場原理の導入は、おいしいところ取りと弱者切捨てが起きるのみならず、企業が参入すれば企業利益優先の医療統制をもたらし、かえって患者さんから選択の自由を奪うなどの弊害が考えられ、医療を良くするようには思えない。
突き詰めれば財源がない事が問題であるのだから、産業界が医療を技術革新の場として利用できる方法を国家戦略として整備し、企業に技術革新をもたらす投資先として資金や技術の援助を受けることはできないものであろうか?軽々しく口にできることではないが、医療界と産業界が相互に実利を得る形で共存共栄し、国力の向上につながるような方法はないものかなどと考えている。
(3) 混合診療について
一定水準以上の医療を受けるためには患者も負担を負うことが必要だと思う。したがって混合診療に関しては、個人的には必要かもしれないと考えている。しかし、医療界では、混合診療を導入したがる政府の目的は、国庫の医療費負担の伸びを抑えることと、米国などの私的保険会社や株式会社などにビジネスチャンスを与えることが至上目的であるので、結局は公的保険のカバーする範囲がなしくずし的に縮小され、まともな医療をうけるためには国民が高額な私的保険への加入を余儀なくされるようになるのではないかという懸念が強い。私もそうなると「命も金次第」という究極の格差社会がもたらされると思う。貧しい人々は切捨てられ、社会に対する不満が高まり、日本社会の美徳である助け合いの精神が破壊され、日本人の心が一層荒廃するのではないかと危惧している。
つまり 「一定水準」の基準をどこに置くかが問題なのである。政府の目指す「国庫支出抑制のための混合診療」ではなく、現在の公的医療水準を維持した上での「より良い医療を受けるための混合診療」であることが必要だと考えている。
しかし、医師側が医療費を増やす必要性を訴えても、「自らの権益を守ろうとする抵抗勢力」と世論操作されている。国民が自らの未来を守るためには、一刻も早く事態に気づき、公的医療の充足を求める強い世論を形成する以外に方法がないように思う。
阪神大震災の際には皆が助け合い略奪などは起きなかった。しかしアメリカのニューオーリンズでハリケーンによる災害の際に、普段から社会への不満を募らせていた人々が略奪などの行為に走ったのと同じようなことが、やがて日本でも起こってしまうのではないかと心配でならない。
(4) 新しい医療制度に国民的議論を
このまま新しい制度ができてしまえば、例えそれがどんなに理不尽でも、医療者としての良心に反するものであっても、医療者はそれに従うしか方法がない、しかしそれでは自分達も良い医療を受けられないことを、国民にも気づいて欲しい。
良い医療を行うためには、相応のコストと、理にかなった良い医療システム、そして何よりも医療者と国民の相互理解や協力が必要だ。
今、日本の医療は運命の分岐点に立っている。全ての国民が日本の医療の現状を正しく認識した上で、新しい医療制度について真剣に考え、そして自らもその建設に加わって頂きたいと思う。医療危機という「国難」に対して政府や医療機関におまかせではなく、国民も一人一人がそれぞれの立場で出来ることを考えて立ち向かおうという気運を高めて欲しい。
一人の力では現状を変えることはできないが、問題意識を持つ人が増えれば、それは自ずと大きなうねりとなるはずだ。国民全体が自分自身の問題として真剣に見つめる中で、国家を挙げて議論されるようにそうすれば、いろいろなところから良いアイディアがたくさん出てくるのではないかと思う。
日本国民の英知を結集し、真に国民と国家のためになる医療システムを構築することを、医師としても、一国民としても切に願うものである。
(5) 稿を終えるにあたり
相変わらず事実確認もない段階での医師や医療機関へのバッシングと、医療の抱える問題には触れようともしない名医や最先端医療の特集が続いている。今、現場で働く少なからぬ数の医師達の中に「医療は来年にでも崩壊する」という絶望的な観測が広がっている。つい最近も全国の医師達を絶望させ、不十分な体制で救急医療に従事させられる地方の急性期病院の当直を忌避させるような判決が下された。
私は政策がもたらした医療現場の現実と国民の期待要求のあまりもの乖離、その事実が報道されないこと、さらには日本人全体の心の崩壊と成熟した死生観の欠如が医療崩壊の原因だと思っている。一般の方々の認識も進んではいるが、事態はより一層深刻で危機的である。
この現実をどうしても一般の方々に伝えたいと思い、慣れない筆をとった。
国は医療崩壊をこれ以上進行させない為に、国民に対し真実を語る義務があると思う。
医師は結果が悪ければ過去に遡って過失を追求される。しかし、政策に関しては、外国と比べても極めて軽率に制度を変え、日本中の医療機関や患者さん達に重大な影響を与えた挙句に問題があったと分かっても何のお咎めもなしだ。医療経済学者が統計を取ろうにもまともなデータすらないという。一方米国では医療政策を厳格に検証するシステムがあり、政策担当者も厳しく評価される。そのためもあってか米国では日本のような大幅な医療政策の変更は行わないそうである。
今、「いじめ」や「振り込め詐欺」などに代表される日本人の心の荒廃に強い危機感を持っている人も多いことと思う。国民にとって最も重要な領域の一つである医療現場において、今後も徳性の低い政策が強行される事態となれば、国民の精神性という国家の最も重要な基盤、財産を、さらに崩壊させることになるのではないかと危惧している。
限られた医療資源を大切に使ってゆくには、医師も含め日本人全体の精神性が高まる必要があると思う。それがなければ、どんなに医学が進歩しても医療費を投入しても良い医療は永遠に実現しないだろう。
今回自分には手に余るテーマについても十分な見識がないままに論じた部分があると反省している。自らの不明を改める為にもご意見ご批判は喜んで受けたいと思う。何かあればご指摘頂きたい。
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