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(掲載日 2006.02.10)
サブテロメア領域の刻印
―染色体の片隅が叫ぶ真実―
<連載5> 逆選択という差別の不可視化
澤 倫太郎
日本医科大学生殖発達病態学・遺伝診療科 講師
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2003年6月18日、神戸地方裁判所は、クラッベ病(Krabbe Disease)
(注1)
と呼ばれる遺伝病の患者が、遺伝子診断前に加入した高度傷害保険特約付きの生命保険契約を無効とされたことを不服として訴えていた件について、生命保険会社の「支払い拒否」を容認する判決をくだした。
ことの経緯はこうである。
患者は1989年11月に高度傷害保険特約付きの生命保険に加入した。その後、1992年7月に疾病に基づく痙性対麻痺による両下肢機能全廃(身体傷害者等級1級)と認定され、1994年には、血液検査における酵素活性低下(血中ガラクトシダーゼ活性の低下)から、クラッべ病と診断された。
1999年、患者が保険会社に高度傷害保険金の支払いを請求したところ、保険会社側は患者の症状は責任開始前に発病したものであり、高度傷害保険金は保険による担保の規定外であると判断。支払いを拒否したのである。
保険会社が支払いを拒否した判断理由は以下の通りだ。(1)保険契約時(責任開始期前)に既に存在した保険リスクをも保険の対象に含めると、高度傷害状態に該当する可能性の高い被保険者が保険に加入するというモラルハザードを招来し、保険制度の健全な運営を阻害する怖れがある。また、被保険者のリスクに差異が生じることとなり、不公平である(これを逆選択という)。(2)保険者は責任開始期前にすでに存在したリスクを担保するための保険料の設定はしていない。
この判断根拠は、以下のような生命保険業界のシンクタンクである生命保険法制研究会の試案に基づく。
「被保険者の疾病の発生後に保険者が申し込みを承諾したときは、保険者の承諾の当時に保険契約者、保険金受取人、被保険者または保険者が疾病の発生の事実を知っていても、そのために保険契約が無効となることはない。この場合において、保険者は責任開始の時よりも前に生じた被保険者の疾病について保険金を支払う責任を負わない」
つまり、患者は保険加入時に比べて病勢が進行していたことを理由に、保険会社に支払いを拒否されたのである。
そして、神戸地裁が下した判決はこうだ。
「本件は保険加入のために遺伝子情報の提供が必要とされた事案ではない。したがって保険に加入するに当たっての遺伝子情報の取り扱いや、遺伝子情報のコントロール権などの議論は本件では妥当しない。本件は、原告が医療機関に血液を提供し、リソゾーム酵素の解析の結果、自らが遺伝性神経疾患であるクラッベ病であることを知るに至ったという事案にすぎない」
「責任開始期前の原告に認められた障害状態もクラッベ病によるものであり、それと無関係な他原因が新たに加わって症状が悪化したのではなく、クラッベ病の進行により障害状態が悪化したものであると認定するのが相当である」
これは、保険者は責任開始の時よりも以前に生じた被保険者の疾病については保険金を支払う責を負わないという大原則はゆるがない、ということであろう。「保険数理にもとづく逆選択をどう考えるのか?」といった本質的議論は本法廷ではおこないません、という丸投げぶりである。そのことを、あえて非難するつもりはない。しかし、遺伝病はいつ発病するかも、また発病しないまま生涯を終えるかも分からないことが多いのである。
この患者の場合であれば、24歳から歩行困難があり、保険加入時の病態・病勢は固定していなかった。それでは、病態が固定していれば保険給付対象となったのか、文句のひとつもいいたくなる。疑問はまだある。もし原告が遺伝子診断を受けなければ、保険給付の対象になったのか。保因者かもしれない原告の血縁者の、保険加入と給付について、どのような見解をもっているのか。回答はおろか、こうした問題提起すら司法はおこなわなかったのである。
また、クラッベ病は発症年齢の違いにより、乳児型(3〜6ヶ月で発症)・晩期乳児型(6ヶ月〜3歳で発症)・若年型(3歳〜10歳で発症)・成人型(10〜35歳で発症)に分類される遺伝病である。もっとも多い、乳児型の場合は、乳児型の発症頻度でも10万人に1人と珍しい遺伝病だが、若年型や成人型がみられるケースはさらにまれである。そして、この患者の場合は「成人型」に分類されていた。このように、まれな発症頻度を考えれば、「逆選択によるモラルハザードによって引き起こされる被保険者のリスク」が、いったいどれだけ増えるというのか?
法曹界の頬かむりぶりは、「生殖補助医療に係わる親子法の改正」という一民法の改正すらできずに凍結し、そのため臨床現場が迷走する現状をみれば、十分理解できるであろう。頬かむりは、メディアも同じだ。このような社会的に重要な事案であっても、民間保険会社が最大のスポンサーであるわが国の主要メディアが大きく報道することはない。これからも沈黙を守り続けるのだろうか?商業主義に埋もれた末の、偏向報道によってもたらされる情報の非対称
(注2)
の問題は、わが国では拡大する一方なのである。
改めて強調しておきたいのだが、遺伝カウンセリングの際、大切なのは「患者に生じ得るすべての可能性について、クライエントに説明すること」である。当然、生保業界も、法曹界も、遺伝病への取り扱いや遺伝病に関連する判断に際し、情報の非対称の問題を解決するためにも、患者や家族のみならず、広く社会に対して、明確な説明責任が求められて然るべきであろう。
わが国における遺伝情報の取り扱いは、これまで述べてきたように、お寒い限りである。では、どうしたら良いのか。1つの先例として、英国の事例をここで触れておこう。
2000年10月、イギリスの保健省は、生命保険会社に対し、生命保険への加入の際に申込者がハンチントン病の発症前遺伝子検査を受けたかどうか、そして、受けたことがある場合はその検査結果を確認する権利を認めた。(参照:
英保健省「遺伝学保険委員会[Genetics and Insurance Committee、GAIC]」
)
認可されたのは、ハンチントン病の患者本人のDNA検査と、患者家族との遺伝的関連性をみるリンケージ検査の2種類の検査結果の確認である。しかし、この検査結果の確認に際して、イギリス保健省は厳格な条件をつけている。つまり、この確認をする際に、保険会社は、(1)データ保護法(Data Protection Act)に則って個人の医療記録へアクセスすること、(2)実際に、逆選択により、他の被保険者への損失が高まるのかどうかの、保険数理上のデータを保健省に報告すること(陽性だった人々が、未発症の期間と発病後の症状に応じて保険に加入できる道を模索するため)――などの条件を課したのである。また、保険金が10万ポンド(1ポンド=約200円、2006年2月7日現在)以下の、住宅ローンの適格担保となる生命保険に関しては対象外とした。
確かに英国においても、遺伝子検査を受けて陽性だった人々をどのように救済するか、遺伝子検査を受けるか、受けないかの自己決定が「保険」に影響されないようにするにはどのようなシステムが必要か、という問題は未だ残ったままである。しかし、既に潜行する不当な差別の問題を無視することなく、イギリス政府が、単一遺伝子疾患に限って、生命保険会社に検査結果を利用する権利を認め、検査結果の利用について逐一審査するシステムを保険業界に認めさせた意義は大きい、と専門家は指摘する。
(注3)
民間の医療保険に頼るアメリカであれば、医療保険についても問題が波及するところである。しかし、イギリスでは、基本的な医療サービス(NHS, National Health Service)が税金で賄われ、社会保障として提供されており、民間の医療保険はあくまで補足的な扱いである。このため、遺伝情報に関しては生命保険を対象にした議論に焦点を絞りやすかったのであろう。また、住宅ローンの設定などにおいて、生命保険が適格担保として認められていることも大きく関係したと考えられる。
それにも増して重要な要素は、イギリスでは、遺伝子検査の結果と保険加入希望者のリスク評価の関係について、国民的なレベルで活発な議論がおこなわれてきたことであろう。同国で議論が活発になったのは、1993年に民間の生命倫理学研究機関(
Nuffield Council on Bioethics
)による『遺伝子スクリーニング:倫理的な問題(
Genetic Screening Ethical Issues
)』という報告書が提出されて以来のことである。
議論はいまも活発だ。たとえば2005年4月にジョン・リード保健相(当時)は、「ハンチントン病以外の乳癌や卵巣癌などの発症前診断のための遺伝子検査のデータの使用については、2011年11月までモラトリアム(猶予期間)にするべきだ」との考えを示している。
(注4)
保因者の命を助けることになる遺伝子検査が、保険加入への不当な差別を恐れて、おこなわれなくなることを危惧しての発言である。そしてさらに重要なのは、国民の議論や疑問に応える形で、イギリス政府は、遺伝カウンセリングの提供体制の充実や、医療提供側と患者団体とのネットワークの整備を進めてきた事実である。
翻って、日本において、遺伝子検査の結果と保険の問題を考える場合、それ以前に解決しなければならないことが多すぎるのが実情だ。「病名告知は誰が、どのような方法でおこなうのか」、「血族へ遺伝子変異のリスクをどう伝えていくための支援をどうするか」、「そのためにまず必要不可欠な遺伝診療のインフラをどうするのか」。国家レベルでの議論もなく、問題点が山積した今のままでは、「逆選択」という名のもとに遺伝差別は、ますます深く闇に潜行していくことになるのである。
この次は、日本の遺伝情報の取り扱いに対する考え方が国際的に見て、どれだけ逸脱しているかを示すため、欧米各国がどのような概念や倫理観から、遺伝情報を位置づけているかについて掘り下げてみたいと思う。
(注1)
14番染色体にある遺伝子変異からおこる常染色体劣性の遺伝性神経疾患(
ライソゾーム病
の1つ)である。生きている細胞は、常に新しい物質を産生し、古くなった物質は分解され排泄される。この老廃物を分解する場所が、細胞の中にあるライソゾームだ。したがって、このライソゾームの中には数多くの分解酵素が存在している。この分解酵素の1つが先天的に欠損しているために起こる病気がライソゾーム病である。欠損する酵素の種類によって症状も異なる。現在、約30種のライソゾーム病が知られおり、国の特定疾患(難病)指定を受けている。
クラッベ病はライソゾーム病のひとつで、グロボイド細胞性脳白質異栄養症(Globoid Cell Leukodystrophy)とも呼ばれる。ガラクトセレブロシド β-ガラクトシダーゼという酵素欠損により、神経毒性をもつる老廃物(ガラクトセレブロシド)が中枢神経細胞へ蓄積されることにより症状が引き起こされる。
乳児型の場合、ミルクを飲みにくいなどの症状で発見され、病期は1年未満、通常2歳以内に死亡する遺伝病である。根本的な治療法はなく、発症してから死亡するまでの期間は晩期乳児型で1〜3年、若年型では5年以上、成人型で10年以上とされる。発症年齢が遅くなるにつれて進行が緩やかになる。
(注2)
ジャーナリズムがまず矜持とするべき原理は「公に対するフェアな態度」である。この原理が徹底している欧米のメディアが、「遺伝情報と保険」の問題を取り上げる際に、もっとも重要視するのは「情報の非対称性」についてである。つまり、保険会社がもつ情報量と、クライアントや保因者を含めた国民がもつ情報量が均衡でなければアンフェアだとする考え方だ。この視座からみれば、わが国のメディアの行動様式はあまりに対照的で驚かされる。
(注3)
「逆選択の防止と『知らないでいる権利』の確保―イギリスでのハンチントン病遺伝子検査結果の商業利用を手がかりに−」(武藤香織)『国際バイオエシックスネットワーク』第30号(2000.10.31) pp.11-20参照
(注4)
http://news.bbc.co.uk/1/hi/health/4347273.stm
「<連載6> 遺伝子変異差別の国日本」に続く >>
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