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(掲載日 2006.02.14)
サブテロメア領域の刻印
―染色体の片隅が叫ぶ真実―
<連載6> 遺伝変異差別の国 日本
投稿者  澤 倫太郎
 日本医科大学生殖発達病態学・遺伝診療科 講師

  遺伝情報はほかの個人情報とは本質的に明らかに異なる。人間がどのような遺伝情報をもって生まれてくるかは本人に責任はなく、血族全員に係わる情報である。そのうえ、遺伝子上の1つの塩基配列の異常で発症する点変異によって引き起こされる疾患(注1)においても、遺伝情報をもとに将来の健康状態の正確な予測をすることは非常に困難なのである。

 それだけに、遺伝子情報をそのまま保険リスクを測る指標にするなどという短絡的な商用利用など許されるべきではない。連載5「逆選択という差別の不可視化」でも述べた「イギリス政府と保険会社の立ち振る舞い」を例にあげるまでもなく、欧米では人権にかかわる問題として明確に位置づけられ、遺伝情報の利用には慎重な対応を求められている。

  ヨーロッパ評議会は1996年「人権と生物医学条約」を、そしてユネスコ(国連教育科学文化機関)は1997年に「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」をそれぞれ採択している。ヨーロッパでは、遺伝情報を含む先端医療に関して、国際条約上で生命倫理問題を国際条約上の人権問題として明確に位置づけようとする試みが行なわれているのである。。

  これに対して、わが国の一部の国立系研究所の生命倫理学者たちは、「あくまでも欧州的価値観」と傍観し、「遺伝情報と人権問題とむすびつけることから」距離をおこうとする。彼らが直輸入したいのは、産業への公的介入を避ける実利重視のアメリカ型生命倫理(テクノ・エシックスと呼ばれる)に基づく政策なのだろう。しかし、そのアメリカでさえ、遺伝情報による「個人の差異化」に対しての政策上の運用は柔軟だ。1990年に遺伝病の子供に関して保険加入を拒否したり、保険料を割増しさせたりすることを禁止する州法がカリフォルニア州で成立したのをきっかけに、続けて15州で医療保険加入と転職の場面で遺伝的差別を禁止する州法が成立している。

  1996年には、団体加入保険の遺伝子情報の請求を禁止する連邦法(The Kassebaum-Kennedy Health Insurance Portability and Accountability Act)が制定され、「過去の病歴や遺伝的条件を加入謝絶の理由にしてはならない」として各州に保険会社を規制しているのである。2000年には連邦職員の遺伝情報の利用による雇用等の差別を禁止、2003年10月14日には遺伝情報差別禁止法案(Genetic Information Nondiscrimination Act)が上院で可決され、保険会社の審査に遺伝情報を利用することを明確に禁じている。

 ヨーロッパの行動様式は、ナチス政策下の優性思想に過度に反応したものだ、としたり顔で言い放つわが国の識者は案外多い。彼らは所詮、国際会議での議論の経験がないか、乏しいと考えてよい。アメリカが「差別と戦い続けてきた国」という言葉の真意は、人種差別という表層のイシューだけでは語りつくせない封印の歴史に隠されているのだ。第2次世界大戦初期、ドイツで公然と行われていたユダヤ人迫害に対して、ヨーロッパの国々と並んでアメリカも、長い間、冷たい沈黙を守り続けてきた事実を忘れてはならない。

「The Plot Against America」 そのことを如実に示すのが1939年にユダヤ移民に対する受け入れ取締りを強化した「スミス法」、1941年にビザ発行を制限した「ラッセル法」だろう。これらの締め付けがなければ、多くのユダヤ人がホロコーストの悲劇を免れたであろう。欧米に共通する、この「20世紀最大の原罪」を鋭く風刺しているのが、アメリカ近代文学の大きな柱で、いまだにベストセラー作家でもあるフィリップ・ロスの新作「The Plot Against America(注2)である。

 歴史をさかのぼれば、遺伝カウンセリングは、欧米では聖職者がおこなう作業だった。遺伝現象を最初に法則として系統化し、遺伝学の基礎を作ったGregor Johann Mendel がオーストリアの修道院の司祭であったことは有名である。Mendelは自分の所属する聖アウグスチノ修道院の庭にエンドウを植え、その種子の形や子葉、種皮の色、サヤの硬さや色、花の付く位置、茎の高さなど七つの形質を用いて交配実験をし、1866年「植物雑種の研究」という論文にまとめ、チェコスロバキアのブルノ自然科学誌に発表したのである。彼の遺伝法則(優劣の法則 ・分離の法則・独立の法則)は今に至っても、遺伝学の基盤を貫く偉大なる発見である。

  また、遺伝病が同一家系に再び現れる再発率の推定に使われるのは「Bayesの定理」であるが、この原理を提唱したBayes(トーマス・ベイズ)は18世紀のイギリスの科学者であり、聖職者でもあった。さらにユダヤ教信者同士の結婚には、原則として司祭(ラビ)の許可が必要だが、この許可制が常染色体劣性遺伝のテイ・サックス病の拡大を防止していた事実がある。

 カソリックには「懺悔」という儀式があるのはご存知であろう。ピーター・シェイファーの舞台劇を映画化した「アマデウス」では、サリエリの、神父への告白という形で進行していく。「実はモーツァルトを毒殺したのは私なのだ」という懺悔と同様、「実はお腹の子の父親は…」という究極の真実も、懺悔室の中で、神の代理人たる司祭に告白される。実はこのことは現在にいたっても、臨床遺伝学の領域では、非常に重要な情報であることに変わりはない。それゆえカソリックの司祭は、最高のプライバシーに基づく家系図を構築できたのである。

  遺伝情報が、それほどの聖域であるという身体感覚を持ち合わせていない日本は、誤解をおそれず言えば、「遺伝変異差別の天国」と言えるのではないだろうか(民間保険における保険数理の理屈はもう聞き飽きた)。

  事実、ナチス・ムーブメントの体験の希薄なわが国において、「個人の差異化」にかかわる事態は深刻だ。わずかに、2005年4月から公布された個人情報保護法の付帯決議において「医療(遺伝子医療等先端医療技術の確立のために国民の協力が必要な分野についての研究・開発・利用を含む)、金融、信用、情報通信等、国民から高いレベルで個人情報の保護が求められている分野について、個別法を早急に検討する」と言及されているだけで、事実上の環境整備は全く進んでいない。

  しかし、大手の民間保険会社と消費者金融が最大のスポンサーである日本のメディアは沈黙を続けるだけだ。「国民皆保険など廃止して、民間保険にゆだねれば良いではないか?」と真顔で発言する政府審議会の民間議員は、国際基準からも大きく解離した特異な日本の現状を知っているのだろうか?そして「国際基準(グローバル・スタンダード)のわが国への導入」は、かれらの十八番(おはこ)ではなかったか?


(注1)
 たとえば、「着床前診断」の適応とされる疾患で、メディアでもとりあげられることの多い「Duchenne型筋ジストロフィー」は、男児出生3,500人に1人にみられると言われている疾患で、筋ジストロフィーの中でも最も頻度が高い。ジストロフィン遺伝子はヒトの遺伝子の中でも最大のため、頻度が高いだけでなく、多様な遺伝子型を持つ。ジストロフィン遺伝子の異常のうち約60%が欠失変異、約10%が重複変異、約30%が点変異とされる。

(注2)
 まだ翻訳はされていないが、その書評レビューを紹介しよう

  「本書のなかの世界では、1940年の大統領選挙でチャールズ・A・リンドバーグがフランクリン・ルーズベルトを破り、フィリップとその父や兄はニュージャージー州ニューアークで嵐に耐えている。『アメリカを戦争に追い込んだのはイギリスとユダヤ人である』というリンドバーグの実際のラジオ演説をもとに、ロスは不気味に筋の通った物語を展開していく。リンドバーグの露骨な反ユダヤ主義(ナチスドイツの外相フォン・リッベントロップをホワイトハウスに招待する、など)に勢いづいた政府内外の孤立主義者は新法を次々と成立させ、宗教的な嫌悪感を煽り立て、やがてその嫌悪感は全米規模のユダヤ人虐殺で頂点に達する。ウォルター・ウィンチェル、フィオレロ・ラ・ガルディア、ヘンリー・フォードなどの歴史上の人物も登場し、恐ろしいほどの説得力を持つ本書は、最高のスリラー小説に劣らぬサスペンスに満ちていながら、人がどれほどたやすく利己心に負け、道徳を捨て去ってしまうかを見事に描き出している」

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