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(掲載日 2006.05.12)
〜特別レポート〜
わが国の産科医療が直面する
「今そこにある危機」

−海外での卵子提供による不妊治療−
投稿者  澤 倫太郎
 日本医科大学生殖発達病態学・遺伝診療科 講師
 代理懐胎、卵子提供の問題は、わが国においても深刻な問題となっている。しかもその問題の本質は、メディアが取り上げるような倫理的な是非を問うものではない。いくら国内で倫理的議論を重ねても、子を持ちたいと思うカップルは海外に渡航する。そこで起こる日本特有の現象こそ、周産期医療の現場が震撼する「今そこにある危機」なのである。

 「嫁して三年、子なくば去れ」といった類いの唾棄すべき風潮は、韓国と同様、日本にもいまだ根深く残っている。一般に不妊原因の多くは男性因子が多いのだが、晩婚化が進み、不妊原因に占める卵子の加齢による品質低下の頻度は上昇する一方である。

 代理母(※注1)を介した方法については、制度が整備されている米カリフォルニアを日本や韓国から不妊治療のために訪れるカップルの数は増え続けている。しかし、分娩した女性を母親とみなす「分娩母ルール」が原則の日本において最近、顕著になってきているケースは、カップルが海外に渡航し(首都圏で見れば、渡航先のほとんどがアメリカ合衆国、たいていコーディネーターも同じだ)、代理出産を選択せずに、卵子提供を受け、妊娠が成立した時点で、帰国するケースである。本人が日本国内で分娩するのであるから、民法上の親子関係(嫡出児の推定)がクリアされる、というわけだ。

 しかし、このような症例で問題となるのは、母体の年齢と加齢に伴う合併症なのである。生殖年齢をはるかに超える妊婦も決して珍しくない。「今そこにある危機」とは、こうした海外での卵子提供における妊娠・出産に絡む諸問題が近年、増えつつあることである。そして、その影響は、日本の産科医療現場に深刻な問題を投げかけているのである。

 まず、不妊治療を受ける女性たちの既往歴について説明しよう。彼女たちの既往歴は非常に良く似ている。不妊症全般に言えることだが、経済的には余裕があるカップルである点。次に、日本国内において長い不妊治療経験を持っている点。しかし、そもそもの不妊の原因は多種多様だ。残酷な話だが、日本における長い不妊治療は加齢による卵子のクオリティの低下を招く。渡米を決心し、提供卵子による体外受精・胚移植を受ける。提供卵子が若いとはいえ、妊娠が成立する確率(受精卵が子宮に着床してある程度まで胚が育つ確率)は、よくて20%程度。5回の胚移殖を受けて、はじめて妊娠が成立する計算だ。さらに、生まれてくる子のためにも、コーディネーターはアジア系(中国系か韓国系米国人)の女性の卵子ドナーを確保しなければならない(日本人カップルに人気のある米国コーディネーターの売りは「信頼できるアジア系米国人の卵子提供」である)。

 そして、忘れてはならないのが、卵子提供の費用とは別に、5回の胚提供を受ける期間の滞在費等を含めれば、相当額の治療コストが発生するということである。知らないうちに信じられない額の治療費を不妊治療に使っていることも実際に多いのである。このため、渡米を決心する前には、不妊治療費のために蓄財する期間も必要である。その期間がまた女性の年齢を高める悪循環を生む。しかも、コストをかけた分だけ、不妊治療の成果に対する期待感も高いと付け加えておこう。

 重ねて言うが、ここで問題となるのは、ずばり分娩出産に際しての母体の年齢と合併症、さらにすべての体外受精・胚移植のケースで共通の問題となる多胎である。周産期専門医たちは、これらの「医学的につくられたハイリスク妊婦」を管理し、無事に出産させなければならない。しかし、いくらコストと時間をかけても、ハイリスクなものはハイリスクである。全力を尽くしても、さまざまなアクシデントに巻きこまれた挙句、訴訟という無間地獄が待っていることすらある。

 今回の福島県立大野病院事件における分娩責任医師の逮捕・起訴(不当な逮捕であったことは証拠開示がなされた今に至って、より鮮明になりつつある)でも法廷闘争の焦点になるであろうが、生まれてくる子の周産期予後を含めて、分娩は、一歩正常な経過から道を外れれば、ときには母体生命にかかわる非常にシリアスなイベントなのである。

 しかも、大量出血や羊水塞栓症(羊水が母体血に混入し、肺循環が急速に収縮する疾患。症状が急性な場合は即死に近い)など、予測や予防のしようのないのが母体救急の最大の特徴なのだ。そして重要な命題となるのが、今も昔も、母体が分娩に耐えられるか否かという問題なのである。

 産科医たちには妊娠許可のクライテリアというものがある。心疾患や腎臓疾患など様々な合併症をもつ女性たちに対して「母体が妊娠分娩に耐えられない」と判断された場合は、妊娠を許可しない。むろん症状が安定した時点で、ぎりぎりの限界点をみはからって妊娠を許諾する場合もある。

 しかし一旦、妊娠が成立した場合も、母体合併症の病勢が悪化すれば妊娠を中断するという条件つきである。これらのケースでは、不思議なことに「生殖の権利に抵触する」という議論はおこらない。それほど、分娩のリスクが高いということである。

 自分の子宮に新しい生命が宿ることは、長年不妊に悩み、高い治療費を払ってきた夫婦にとっては、夢にまで見た「ファンタジー」なのだ。ところが分娩にあたって、「ファンタジー」の対極にある非常に厳しい「リアリティー」とのギャップを理解させるのが、果たして産科医の責任なのか? 県立大野病院事件の影響で、いまや若い世代の産科医たちは「リスク・ストレス」という名の「言いようのない不安」に完全に追い詰められている。そしていまや多くの若い産科医たちは、こう言い放つ。

 「国内だろうが、国外だろうが、親のエゴといいかげんな適応でおこなわれた不妊治療によってできた医原性のハイリスク妊娠のリスクまで、なぜ我々が背負わなければならないのか? 分娩のリスクを考えれば代理母のほうがずっとましだ。」と。

 これは冗談ではない。これがいまの産科医療現場の究極の「リアリティー」なのだ。


(注1)代理母制度

 アメリカの代理母制度の功罪に関しては、平井美帆氏の「あなたの子宮を貸してください」(講談社)に詳しい。一読をお勧めする。

 著書のなかで平井氏は、今回の韓国ES細胞捏造事件の発端となった卵子売買問題により、韓国内の生殖医療ビジネスに法的な規制がなされた影響で、今後日本人および韓国人クライエントのアメリカ依存は益々高まるだろうと予測する。そして平井氏は医療者が生殖補助医療の倫理規範を決めることへ疑問を呈する。しかし多くの周産期医療提供者(産科医や小児科医)が生殖補助医療の無制限な普及に疑義を表明しているのは、いわゆる「生殖の権利・リプロダクティブ・ライツ」などという問題に対してではない。専門家が指摘する根源的な問題とは、卵子提供や代理母の倫理的是非などではないのだ。

  代理懐胎には3つのパターンがある。ひとつは「クライエントの精子を代理母の子宮に注入する人工授精型」。韓国に伝統的にみられる「シバジ制度」がこれにあたる。2つめは「不妊カップルの配偶子同士を体外受精させ、受精卵を代理母の子宮に胚移植する体外受精型」で、わが国では、長野県の医師がおこなって社会的注目を浴びた。彼は代理母に「血縁の姉妹の子宮を用いるべきである」と主張する。また格闘家高田延彦・タレント向井亜紀氏夫妻のケースでもネバダ州のアメリカ人代理母の子宮が用いられた。

 そして最近、経済的余裕がある高年齢の女性が選択するのは「アジア系の女性の提供卵子にパートナーの精子を体外受精させ、代理母の子宮に胚移植するエッグ・ドネイション型」である。日本の首都圏のカップルに人気があるのは「高品質の提供卵子と信頼できる代理出産制度」が整備されているアメリカ・カリフォルニア州のサロガシー・エージェントである。州法でクライアント夫婦が法的に保証された両親(リーガル・ペアレンツ)と認定されているため、米国の大手の代理母ビジネスの多くがカリフォルニアに集中している(以前はネバダ州もサロガシー・ビジネスの拠点であったが、事実婚のカップル、つまりゲイやレスビアンのカップルの代理母契約を認めていないため、現在ではカリフォルニアに集中している)。そのうち日本人カップルに人気が高いのは、すでに1000人以上の代理母による出産経験を誇る老舗 CSP:サロガシー・ペアレンティング・センターとHRC:ハンティントン・リプロダクティブ・センターであろう。

 先にも述べたように、アメリカ・カリフォルニア州法は代理出産を含めた生殖補助医療のクライエント(依頼主)が法的な両親とされる。一方、分娩母ルール(分娩した女性を母親とみなす)が原則の日本においては、提供卵子を使用した場合も、自らの卵子を使った場合も、戸籍上は嫡出子としては認められない。そこで、代理出産であることを明らかにしないまま、帰国後、戸籍を整えようとするケースも少なくない。代理出産を終えたあとも、出産した児との心理的関係を大切にしようとする米国のサロゲート・マザーたちが、日本人クライアントに抱く不満の多くが、ある日突然、連絡を絶つカップルが多いことだ。

  この現象は、日本でも旧い歴史をもつ「提供精子による人工授精」のトレーサビリティ(追跡調査)の難しさからも伺える。そして、このことは、民法上の親子規定が近年の生殖補助医療の普及に追いついていない事情を差し引いても、裏を返せば、わが国においては、カップル以外の第三者の配偶子を用いた生殖補助医療が、残念ながら、いまだ社会的認知を得たとは言い難い傍証でもある。さらに自分の遺伝上の出自の曖昧さ(自分の遺伝上の両親は誰か?自分が誰から生まれたのか?に対する漠然とした不安)は、子どもたちの発達心理学の領域から見れば、非常に大きな問題点を抱えていることを専門家は指摘する。

<参考>
「韓国ES細胞捏造事件の闇の奥」連載5
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