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コラム
今週のテーマ
(掲載日 2008.04.08)
 
 「人物本位」は正論に聞こえるが・・・

 「財務省OBというだけで排斥するのはおかしい。要は個人の識見と能力ではないか、出身でなく人物本位で選ぶべきだ」との意見は、実にもっともらしい。一般論としてなら、文句のつけようのない正論かもしれない。

 しかし、一般論では片付けられない重大な問題が、わが国にはある。そして、それは医療にも重大な影響を及ぼしている。

 マスコミの移り気は今に始まったことではないが、ガソリン値下げのカウントダウンばかりに集中して、このところ忘れられがちだった日銀総裁問題。総裁が空席では「国際社会で信用を失う」とか、「金融不安が起きたらどうする」とか、大げさに騒いでいたのが嘘のようである。

 だが、どう考えても、日銀総裁の空席がそれほどの重大事とは思えない。代理を立てれば済む話だ。空席それ自体よりも、空席をまったく想定していない日銀法の不備を放置してきたリスク管理の甘さの方が、深刻な問題かもしれない。

 白川副総裁の代理が決まってからも、代理では国際金融の場で発言力が弱いという懸念も伝えられたが、なに、これまでだってたいして発言力があったわけではない。

財務省次官だけが候補になる不思議

 この件に関しては、不思議なことが多かった。なぜ、多くのマスコミが、「国際信用」や「金融不安」を盾に、空席の危機を過剰に煽ったのか。「人物本位」「能力本位」と言いながら、なぜ候補になるのが財務省次官経験者ばかりなのか。なぜ武藤氏、田波氏の実績評価は通り一遍で説得力がないのか。それなのに、財界トップまで挙って武藤氏を推薦するのはなぜなのか。

 国際的に異例と言うなら、日銀と大蔵省次官経験者が交代で総裁を務めて来た「たすき掛け人事」こそ異例である。異例を通り越して異様でさえある。一期おきに、日銀と大蔵省から最有能な人材が規則正しく現れるのは、実に不思議ではないか。

 要するに、日銀総裁のポストが、財務省天下りの定席と化していたのである。30年にわたって続いたこの異様な人事慣習は、10年前、大蔵省の過剰接待疑惑と日銀法改正を契機に、ようやく終止符が打たれた。

 だが、たすき掛け人事の復活が、財務省の悲願であろうことは想像に難くない。5年前の武藤氏の副総裁就任、今回の総裁への格上げは、失われた天下りポストをとり戻すための、財務省の周到な布石であろう。与党があくまで財務省出身にこだわったのも、それだけ財務省のプッシュが強烈だったからだと新聞も書いている。

なぜ天下りと批判しないのか 

 それにしても、日ごろ「天下り」を声高に批判するマスコミが、日銀総裁を天下りポストにしようとする財務省に怒りを示さないのは、まことに不思議である。この点を繰り返し指摘しているのは、東京新聞の社説だけである。つまり、財務省の強烈なプッシュを受けたのは政界だけではないのだろう。

 武藤氏は、人事のための国会の委員会で、たすき掛け人事の復活ではないかと問われて、こう答えている。「かつてのことは事情もよくわからない。5年間副総裁としてやってきたので、私は内部昇格者であり、たすき掛け人事の復活との見方は理解できない」(毎日新聞)。

 しかし、副総裁になった時点では内部昇格でなかったし、金融政策に携わった実績もなかった。この点を、マスコミはなぜ指摘しないのか。

 日銀総裁人事において最も重要な視点は、「国際信用」や「金融不安」ではない。まして「日銀の独立」や「財金分離」でもない。ポリシーミックスという言葉が示すように、財政政策と金融政策は車の両輪である。その限りにおいて、日銀の独立性は制約を受けて当然である。

 この問題を一般論で論じてはならないのは、単に日銀の役割や金融政策にとどまらず、日本全体の運営を左右する重大問題が内包されているからである。霞ヶ関のみならず永田町から地方まで意のままに操る、世界に例のない「財務省支配」だ。

結果責任を負わない財務省支配の危うさ 

 ご存知の通り財務省は、国税と予算の権限を実質的に握っている。その力は予算のシーズンになると、国会議員が財務省に陳情に行くと言われるほど強大だ。予算を実質的に決めているのは国会ではなく財務省である。暫定税率の国会攻防がこれほど話題になるのも、ひとつには、それがそれだけ異例なことだからだろう。

 予算と税のみならず、国の資産と負債を管理するのも財務省である。その権限によって他省庁から地方まで支配する。検察もまた予算で動くから、財務省(旧大蔵省)の幹部は、収賄容疑でも逮捕されない。

 財務省は、飴だけでなく強力な鞭も持っている。国税審査権に加え、金融庁を通して金融検査権、証券検査権を手中にする。公正取引委員会の委員長も財務省次官の天下りポストだ。

 最大の問題は、これだけの権限を行使しながら、結果責任を一切負わないことである。巨額の財政赤字を招いても、悪いのは政治であり、地方行政だ。金融不安を引き起こしても、銀行の経営責任を追及し、国民の自己責任を主張しただけで、自らの行政責任、監督責任については触れようともしない。

財政政策を検証すべきだ 

 第二次大戦後どの先進国も経験したことのない縮小経済、デフレ経済は、政策の失敗である。とりわけ、小泉政権と歩調を揃えた、というより小泉改革を誘導した武藤氏の財政政策の責任は重大だ。不況下の増税、歳出削減がどれほど日本経済と国民生活の安定を損なったことだろう。

 働き手である一家の主人(国民)が病気なのに、家計費が赤字だからと言って薬(景気対策)も与えずにいて、家計費(財政)の赤字が解消するだろうか。財政健全化と言えば聞こえは良いが、予算配分の自由度を確保することによって、権限と省益の拡大をめざしているだけである。

 国民生活の健全化なくして、財政の健全化などありえない。国民生活を犠牲にしてまで財政の健全化を優先する財務省の方針は、ついにわが国の医療崩壊を招くに至った。

 しかし、実は公的年金の財政危機も、医療保険の財政危機もまったく事実ではない。強大な権限を行使し、情報を壟断して世論を誘導し、日本経済と国民生活を破壊した財務省の責任はきわめて重い。

 結果責任を負わない強大な権限がいかに国民生活を危うくするか、私たちは身に染みて知っているはずである。財務省の権限拡大を許して、これ以上国民生活を危うくしてはならない。

 とはいえ、日銀にも同様の問題があるのだが、すでに字数がオーバーしているので、またの機会に。
 
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